静まりの時 ヨハネ14・23~27
日付:2024年05月23日(木)
イエスは彼に答えられた。
「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。わたしを愛さない人は、わたしのことばを守りません。あなたがたが聞いていることばは、わたしのものではなく、わたしを遣わされた父のものです。
(23-24)
イエスさまを愛する人は、イエスさまをのことばを守る。そうすれば、父なる神さまはその人を愛され、三位一体の神さまはその人のところに来て、その人とともに住む。
聖書の言葉を守れば、その結果として、神さまは愛してくださり、神さまがともにいてくださる、逆に聖書の言葉を守らなければ、神さまは愛してくれない、ともにいて下さらない、とも読める言葉です。
しかし聖書全体が語る神さまとは、罪びとを探し求め、そのために自らがいのちを捨てるお方ですから、このような読み方、すなわち神さまとは私たちの行為によって態度を変えるお方だと読んでしまうことは聖書的でないことになります。ではどのように読むのか。
「そうすれば」と訳されている単語は原文のギリシャ語では「カイ」という言葉です。これは英語では「アンド」にあたる言葉です。他の訳でこの節を読んでみると、
23 イエスはこう答えて言われた。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。
24 わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。
(新共同訳)
23 イエスは答えて言われた。「私を愛する人は、私の言葉を守る。私の父はその人を愛され、父と私とはその人のところに行き、一緒に住む。
24 私を愛さない者は、私の言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉は私のものではなく、私をお遣わしになった父のものである。
(共同訳2018)
私たちの行為の結果、神さまが態度を変えられるというのではなく、私たちが神さまを愛するということと、神さまのみことばを守るということ、そして父なる神さまがその人を愛されるということ、父なる神さまとイエスさまが来てくださって一緒に住むということ、これらはすべて一つのことである、と読むことができるのではないだろうか。
つまり神さまを愛していると言いつつそのことばを守らないということはあり得ない。神さまの言葉を守っているならば、そこに神さまはともにいてくださる。神さまがともにいてくださるということは、神さまのことばを守っていることであり、それは神さまを愛していることだ。そんな読み方も可能ではないか。
神さまは私たちを無条件で愛していてくださいます。この愛に出会った者は、人間である限り、神さまを愛さずにはおれなくなります。それはまた神さまの言葉である聖書を守らなければいられなくなる。そのような信仰生活に、神さまは確かにともにいてくださる。神さまがともにいてくださることが、そのような人生によって証しされるのだと思います。
25 これらのことを、わたしはあなたがたと一緒にいる間に話しました。
26 しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。
三位一体の第三位格である聖霊は「助け主」です。助け主と訳されている単語は、原文ギリシャ語で「パラクレートス」。「パラ」=「傍らに、そばに」という単語と、「クレートス」=「呼び寄せられた、招かれた」という単語によって成り立っています。つまり助けるということは、何かを「する」ということに先立ち、ともに「いる」、ということが強調されている言葉です。
ともにいて助けてくださる聖霊。いったい何を助けてくださるのか。すべてのことを教えてくださる、イエスさまがお話になったことを思い起こさせてくださるとイエスさまは言われました。聖霊が私とともにいてくださる、ということは、私に、イエスさまの言葉を教えてくださる、それは前節までの言葉とあわせて読むと、イエスさまを愛させてくださる、神さまがともにいるということを分からせてくださる、ということなのだと思います。聖書の言葉を読みそれに生きようとしていること、イエスさまを愛そうとしていること、それ自体にすでに聖霊の働きが始まっているのです。
27 わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。あなたがたは心を騒がせてはなりません。ひるんではなりません。
神さまを信じるということは、平安が与えられるということです。しかしこの神さまが与えて下さる平安は、「世が与えるのと同じようには与えられない」。
私たちはいろいろと私たちなりに「平安」を想像します。しかしその平安は結局この世が与える私好みの平安を想像してしまっているのではないだろうか。そうしてイエスさまが与えて下さる平安を誤解してしまうのではないか。
私の想像とは違う平安を与えて下さる。それがイエスさまが与えて下さる平安である。しかしその平安こそ本当の平安であり、私にとって必要な平安だったのだ、と。信仰生活はこのような驚きにあふれているものなのだと思います。聖霊は、そのような新しい平安に気づかせてくださる、導いてくださるのだと思います。