そうすれば、賜物として聖霊を受けます

静まりの時 使徒2・38~42
日付:2024年05月22日(水)

そこで、ペテロは彼らに言った。
「それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたに、あなたがたの子どもたちに、そして遠くにいるすべての人々に、すなわち、私たちの神である主が召される人ならだれにでも、与えられているのです。」
(38~39)

 聖霊が降臨したことにより使徒たちは立ち上がりました(14)。そして立ち上がった使徒のうちペテロが説教を語りはじめました。イエスさまこそ旧約聖書に語られてきた救い主であること。このイエスさまを自分たちは十字架につけたこと。しかし神さまはこのイエスさまを甦らされたこと。ここに救いが完成したこと・・・。
 これを聞いた人たちは「心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、『兄弟たち、私たちはどうしたらよいでしょうか』」といいました。

 この問いに対してペテロは「それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい」と語りました。
 このときペテロの説教を聞いた人びとはみなもともと神さまを信じている人たちです。すでに神さまを信じている人に向かって、神さまを信じなさい、と語ることでは、勧めにはなりません。ペテロは、「悔い改めること」、そして「イエス・キリストの名によってバプテスマを受けること」、この2点を勧めます。本当に神さまを信じるということは、この2点に生きることです。悔い改めるということは、一時的な行為のことではなく、生き方そのものであり、イエスさまの名によって洗礼を受けるということは、単なる儀式にあずかることではなく、それによって「聖霊を受けること」(38)です。

「彼のことばを受け入れた人々はバプテスマを受けた。その日、三千人ほどが仲間に加えられた。」(41)

 ペテロの語る言葉を受け入れ、洗礼を受けた人、すなわち聖霊を受けた人たちが、新しく三千人ほど生まれました。聖書はこれを「仲間に加えられた」と書きます。信仰を持つということは、教会共同体に加えられる、加入することである、というのです。
 現代社会において宗教団体に加入するというと、どうも聞こえが良くないので、もっと自由で自発的な印象を求めて、会員制度、すなわちメンバーシップを嫌う向きがあるかもしれません。しかし聖書は最初から、洗礼を受けるということは、個人的なことではなく、教会に加入することである、すなわち洗礼式も洗礼入会式である、ということを大切にしてきたと思います。
 少し話がずれますが、むかし学生伝道のグループに入るか入らないかで迷っていた時に、入ればどんなメリットがありますか、と文字通りこの言葉ではなかったかもしれませんが、尋ねてしまったことがありました。それに対して先輩のキリスト者は、加入すると会費を払うことができますよ、と答えてくださいました。いくらだったか忘れましたが会費はわずかの金額だったように思います。
 会費を払うということは、普通に考えると自分にとってはデメリットのように考えるものだと思いますが、ここでその先輩はメリットとして語ってくれたのです。グループに参与するということによって、自分に何かメリットがあるかないかを考えることから、自分がこのグループに何かの形でメリットを与えることができるか、そしてそれがまた自分にとってもメリットである。とかく自分がいかに得をするか、ということばかりに終始することから自由にされた、とても新鮮な出来事でした。

 悔い改めをする、そして洗礼を受ける。それは個人的なことでありながら個人主義的なことではない。共同体における出来事である。キリスト者として教会の群れに加えられる。キリストのからだに具体的につなげられる出来事なのだ、と。一人の罪びとが悔い改めるならば、天に喜びが沸き起こるのです。
 イエスさまを信じることが自己中心から解放され、神中心になることだ、と教えられるのですが、この共同体意識が失われると、結果的にキリスト教信仰が、より深くより複雑な自己中心に陥ることになってしまうのです。ですからキリスト教信仰において教会の存在は欠かせません。

 さて聖霊に満たされた人たちの新しく始まったキリスト者としての信仰生活はどのようなものであったのか。

「彼らはいつも、使徒たちの教えを守り、交わりを持ち、パンを裂き、祈りをしていた」(42)。

 教会が健やかな教会であり続けるために欠かすことのできない要素がここに記されていると思います。四点です。

・使徒たちの教えを守ること
・交わりを持つこと
・パンを裂くこと
・祈りをすること

 これらに欠けが生じると、教会は健やかに前進することができない、教会が教会でなくなってしまうのだと思います。ごく簡単に内容を考えたいと思います。

・使徒たちの教えを守ること
 第一コリント15章にパウロは、私も伝えられたこととして語った「教え」があります。私たちが礼拝において信仰の告白としている「使徒信条」の集約されていると思います。聖書が土台なのですが、問題は読み方です。正統的な教理、教会の伝統に基づいた聖書の読み方が必要です。そうして歴史の中で確認された「教え」を、教会は学び続けなければなりません。使徒信条で「公同の教会を信じます」と告白していますので、特異な神学的主張をし自分たちの教会の教えこそ一番なんだ、というのはすでに使徒たちの教えを守っている教会でなくなっていることになります。

・交わりを持つこと
 交わりとは、第一ヨハネ1章にありますのように、三位一体の神さまとの交わりです。その交わりを土台として、あるいは中心としてなされる兄弟姉妹との交わり。それが教会の交わりです。この世には様々な交わりが生まれていますが、似ているところと似ていないところがあります。

・パンを裂くこと
 ルカ24章などを読むと、主イエスさまは食卓の席でご自身を表してくださいました。愛餐会は大切なものです。そしてその中で特別に「パン裂き」は、聖餐式として特別な食卓となりました。愛餐会と聖餐式とは切り離され、聖餐式は礼拝となりました。

・祈りをすること
 ピリピ4・6に「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます」、また第一テサロニケ5章17節には「絶えず祈りなさい」とあります。
 祈りをすること、祈り会を開催することはとても大切なことです。しかし会は開けなくてもとにかく祈ることはとても大切なことです。
 ここで祈りを「祈りと願い」という言い方をしています。「祈り」と「願い」とを区別しているのです。普通祈りといえば願いのことであると考えますが、ここでは願いと区別される祈りがあることが示唆されています。願いではない祈りとはいったいなんであるのか。
 祈りは呼吸であり神さまとの対話であるといわれます。愛する者通しが顔を合わせればつねにそこで相手に対して願いが語られているというのは、不健全ですね。願いではない言葉。今日はいい天気ですね。昨日はこんなうれしいことがありました。こんな悲しいことがありました。あなたならどう思いますか、などの会話がなされるのではないでしょうか。ましてや愛する者通しであれば、言葉としては何も語らなくとも、ただともにいる、一緒に景色を見ているということに喜びを感じるのではないか。そういう祈り、願いではない祈りをささげること。そしてそれとともに願いを訴えること。そうすれば平安が与えられる、というのです。

 「使徒たちの教えを守ること」「交わりを持つこと」「パンを裂くこと」「祈りをすること」。具体的にどのような取り組むが可能であるのか。一緒に考えてみたいと思います。


投稿日

カテゴリー:

投稿者:

タグ: