あなたがたは間もなく、聖霊によるバプテスマを授けられるからです。

静まりの時 使徒1・3~8
日付:2024年05月21日(火)

3 イエスは苦しみを受けた後、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。四十日にわたって彼らに現れ、神の国のことを語られた。
4 使徒たちと一緒にいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。
5 ヨハネは水でバプテスマを授けましたが、あなたがたは間もなく、聖霊によるバプテスマを授けられるからです。」

 イエスさまは、十字架と復活の後、数多くの確かな証拠をもって、確かにご自分が復活し生きていることを使徒たちに示されました。ここで「弟子」といわすに「使徒」と記していることは注目すべきことです。「使徒」の意味は、単に使(遣)わされた者、という意味ですが、すでにこのとき特別な意味をもって使われています。このあとの記事を見ると、イスカリオテのユダが抜けて11人となった使徒たちが補欠選挙をしています。その時、ふさわしい人物が2名ノミネートされます。2名とも加えてもよいようなものですが、彼らはわざわざくじをして1名を選出しました。つまり12という数字にこだわっているのです。それはここに新しい神の国イスラエル12部族を見ようとしている。イスラエルの再興を見ようとしている。しかしそれは単純にイスラエル国家の再興ではなく、異邦人にも拡大される世界大の救いの物語として理解されていく。12使徒に始まる教会こそ、新しいイスラエル、神の国である、との信仰の告白があるのです。
 イエスさまはその使徒たちに語られました。まもなくあなたがたは「聖霊のバプテスマ」を授けられる、これはヨハネの授けたバプテスマとは違うものである、この聖霊のバプテスマを受けると、あなたがたはわたしの証人、証し人となる。

「しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」(8)

 聖霊の働きは「イエスは主です」との告白をさせることです(第一コリント12・3)。そのために使徒たちは証人となる。教会はその証し人となるのです。聖霊降臨(2章)によって、まさに彼らは証人となりました。それゆえ聖霊降臨日は教会の誕生日といわれます。
 私たちは聖霊のバプテスマを受けずして証人となることはできません。証人となるということは、聖霊のバプテスマを受けた、ということが前提とされています。宣教は人間の力によるものではないのです。
 ヨハネのバプテスマは水のバプテスマでした。それに対してキリスト者は聖霊のバプテスマを受けた者です。教会では、それまでも行われていた水のバプテスマの形式を引き継ぎながらも聖霊のバプテスマを授けるようになりました。教会の洗礼式は、すなわち聖霊のバプテスマなのです。私たちは牧師の言葉「父と子と聖霊の名によって洗礼を授けます」との言葉によって、水という物素を用いながら、聖霊のバプテスマを授けられたのです。
 教会で行われている洗礼式を、水のバプテスマ、と語ることで、それを単なる儀式とし、それ以外にいわゆる霊的な体験を聖霊のバプテスマとすることは、伝統的な教会の考え方ではないようです。確かに信仰生活の中で、さまざまに霊的な体験は起こりうることだと思います。しかしいずれも、教会が授ける洗礼式よりも優先されたり重要視されたりすることはキリスト教の立場ではないと思います。教会で行われる洗礼式は、単なる儀式ではなく、まさに聖霊のバプテスマなのです。
 聖霊のバプテスマが授けられる目的はただ一つ、キリストの証し人となることです。イエスは主です、との告白が宣べ伝えられることです。

6 そこで使徒たちは、一緒に集まったとき、イエスに尋ねた。「主よ。イスラエルのために国を再興してくださるのは、この時なのですか。」
7 イエスは彼らに言われた。「いつとか、どんな時とかいうことは、あなたがたの知るところではありません。それは、父がご自分の権威をもって定めておられることです。

 弟子たちの理解では、聖霊のバプテスマが授けられることと、イスラエル国家の再興とが一緒になっていたようです。しかしイエスさまが語られたことは、そのようなことではありませんでした。40日間、復活の主と共に過ごした弟子たちでしたが、依然、信仰の理解は進まなかったようです。

 いつとか、どんな時とかいうことは、私たちの知るところではない、私たちが知る必要がない、それは父なる神さまご自身がその権威をもってお定めになっていることである、あなたがたはすべてを神さまにゆだねていればよいのだ、と言われます。

「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。」

 主にある者は、そして教会は、父の約束を待っていればよいのです。祈って待っている弟子たちのところに聖霊降臨は起こったのです(2章)。

 少し戻りますが、4節の言葉に少しふれておきましょう。

「使徒たちと一緒にいるとき」。

 これは欄外中に、「食事をともにしている」という意味を持った言葉である、と解説されています。新共同訳やフランシスコ会訳などではこちらを採用しています。
 食事を共にしている。それはまた聖餐式を共にしているとも想像できるでしょう。ルカ24章のエマオの途上においても、主は食事の席で、パンとぶどう汁を分かち合うところで、ご自身を現してくださいました。真理を明らかにしてくださいました。教会は、み言葉と聖餐によって前進します。


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