キリストを恐れて、互いに従い合いなさい

静まりの時 エペソ5・21~33
日付:2024年05月07日(火)

21 キリストを恐れて、互いに従い合いなさい。
22 妻たちよ。主に従うように、自分の夫に従いなさい。
・・・
25 夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自分を献げられたように、あなたがたも妻を愛しなさい。
・・・
31 「それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである。」
32 この奥義は偉大です。私は、キリストと教会を指して言っているのです。
33 それはそれとして、 あなたがたもそれぞれ、自分の妻を自分と同じように愛しなさい。 妻もまた、自分の夫を敬いなさい。

 結婚式において、夫、妻それぞれに対しての「教え」として読まれることの多い箇所ですが、文脈としては、教会生活における交わりについての教えと言ったほうがよいかもしれません。教会における交わりとはいかなるものなのか。どのようにすべきなのか。教会においては、キリストを恐れて、互いに従い合うのだよ、互いに従い合う姿が、キリストを恐れていることの証しなのだ、もし互いに従い合っていないとすれば、それはキリストを恐れていない証拠なのだ、とパウロは語りました。
 そこで、パウロは夫婦のあり方を語りました。教会における交わり、それは私たちとキリストとの交わりと密接に結びついている、私たちとキリストとの関係は、夫婦の関係になぞらえることができる、と。
 互いに従い合うこと、互いに愛すること、互いに敬うこと。それが教会の交わりを築き育むことである、と語ります。

 キリストが私たちを愛してくださったことは、私たちが決して愛し易い者であったからではありませんし、愛する価値が客観的に、あるいはこの世的にあったからでもありません。先日の日曜日も学びましたが、ティリッヒの説教によるならば、十字架の犠牲はまったくの無駄なことに見えるのです。その人間的に見れば無駄と見えることを、神さまは無駄とはお考えにならないで、自らのいのちを十字架上で献げてくださいました。そうして私たちに向かってあなたのいのちは、わたしの目には高価で貴いのだよ、と語ってくださったのです。まさに十字架の言葉は、滅びる者にとっては愚かなこと、無駄なことに見えるのですが、救われる者にとっては、神の力なのです。十字架を見上げるごとに、私のいのちの価値の正しい価値が明らかにされ、私たちは生きていく力、勇気をいただくことができます。
 その限りない神さまの愛のまえに、正しく恐れ(畏れ)をいただいているならば、その同じ愛で兄弟姉妹も愛されていることを知っているはずです。パウロは自らを罪びとの頭と告白しました。私が愛されてるならば、なおのこと兄弟姉妹が愛されていないわけがありません。兄弟姉妹が神に愛されている者であることを知るならば、私がその兄弟姉妹を愛し、敬い、時に従うことも当然の帰結です。
 これは個人の間の人間関係のことというよりも、教会のあり方を語っているのだと思います。兄弟姉妹は互いに大切だから、互いに愛し合いましょう、というのではなく、教会は神さまを恐れているので、互いに愛し合うのだ、というのです。つまり信仰の問題です。

 さて、もし相手が間違ったことを強要するならば、私たちはそこでも愛し敬い従うということをすべきなのか。あるいは教会が明らかに間違いと思える道に進もうとしているならば、私たちはそれでも従うべきなのか。
 これは歴史に学ぶのが良いように思います。
 コルプス・レフォルマンダ、だったでしょうか。常に改革され続ける教会、教会とはそのような存在である、という言葉です。
 新約聖書を見れば、教会においてさまざまな問題が起こるたびに、皆で話し合い、祈り合い、考察し合いながら、教会は改革されてきたことが分かります。それはまた、教会を真実に愛し、敬い、従う道であることなのだと思います。宗教改革時の改革者はもとより、歴史上さまざまに改革を行った偉人たちも、教会を真実に愛して、そのようにしてきたのだと思います。結果は必ずしも人間の思い通りにはいかない場面も多かったと思いますが、それでもそこに主の御手があることを信じて、ひたすらキリストを愛して歩んできたのです。ただ、そこで本当に自分の考えは正しく、相手や教会のあり方は間違っているといえるのか、は十分に検討されなければなりません。名だたる改革者たちは、私たちの想像を超えた自己研鑽をし、多角的な見地や司牧的見地に立ち、その改革を行うことになったことを忘れてはなりません。


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