私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください

静まりの時 マタイ6・7~15
日付:2024年04月27日(土)

また、祈るとき、異邦人のように、同じことばをただ繰り返してはいけません。彼らは、ことば数が多いことで聞かれると思っているのです。ですから、彼らと同じようにしてはいけません。あなたがたの父は、あなたがたが求める前から、あなたがたに必要なものを知っておられるのです。
(7-8)

 異邦人は、同じ言葉をただ繰り返すような祈りをしていた、ということでしょうか。お題目のように、まじないのように同じ言葉を繰り返す。それは、言葉数が多いほど聞かれると思っているからだ、神さまは、私たちが求める前から、私たちの必要をご存じなのだ、と主は言われました。
 私たちの必要を知っているのは、私たちではなく神さまである、といいます。だからくどくどと祈る必要はないのです。くどくどと祈ってしまうのは、自分のためかもしれません。神さまに聞いてもらった、という感覚が自分の中に確かにされるためにくどくどと祈ってしまうのかもしれません。神さまは私の必要をすべてご存じなのです。ひと言祈るだけで安心していればよいのです。
 しかし、どうしてもくどくどと祈ってしまうこともあります。聞かれていることは、理屈としては分かっている。けれどもやはりくどくどと祈らずにはおれない。それも私たちの現実であると思います。ある本に次のような言葉がありました。

とも綱で陸(おか)につながれた小舟を想像してみるがよい。その舟に乗ってロープをたぐるときには、あたかも、陸地を自分の方に引き寄せているかのように思える。しかし事実は、陸地が動くのではなく、わたしが舟とともに陸地に引き寄せられているのである。
このように、祈りが神の意志を変えるのではなく、祈りによって、わたしたちが神の意志を果たすべく、神に引き寄せられていく。
祈りの本質は、神に対するわたしたちの願いがききいれられるかどうかということよりも、わたしたちに対する神の思いの実現を願い、それに信頼することにある。
(奥村一郎、『祈り』、女子パウロ会、昭和49年10月15日発行、163頁、24頁)

 神さまへの絶対的な信頼によって簡潔な祈りをささげることが祈りの本質であるとともに、くどくどと祈ることによって、自分自身が変えられていく。それもまた祈りの本質であると思います。

9 ですから、あなたがたはこう祈りなさい。
 『天にいます私たちの父よ。
 御名が聖なるものとされますように。
10 御国が来ますように。
 みこころが天で行われるように、
 地でも行われますように。
11 私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。
12 私たちの負い目をお赦しください。
 私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。
13 私たちを試みにあわせないで、
 悪からお救いください。』
14 もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。
15 しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しになりません。

 毎週礼拝においてささげられる「主の祈り」です。主の祈りはルカの福音書にもありますが、礼拝ではこのマタイの福音書のほうを祈っています。礼拝での主の祈りの最後に祈る「国と力と栄とは限りなく汝のものなればなり」は、聖書にはありません。この頌栄の部分は後代に付け加えられたものとのこと。礼拝の形が整えられる中でのことでしょうか。
 主の祈りは、神さまのための三つの祈り、そして私たちのために三つの祈りによって成り立っています。主の祈りに続いて主は、赦しについて繰り返して語られました。赦しを強調しておられるようです。主の祈りを祈る者は、ことさら赦しに生きることができるようにと願います。
 赦しは、赦すことによって罪を犯した誰かを解放することもあるかもしれませんが、赦すことができない心に縛られている自分自身を解放することでもあります。赦すことは決して犯した罪をあやふやにすることではありません。犯した罪を深く認識するからこそ、赦しは成り立ちます。赦しの恵みは、罪の深さを知れば知るほど大きくなるのです。

「私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。」(11)

 これを、礼拝では「われらの日用の糧を、今日も与え給え」と祈っています。「日用」とは、例えば日用品という言葉が表しているように、それは毎日のことであったり、日常的なことであったり、ということです。原文の単語には「次の日のための、当日のための、存在のための、生活に当てる、必要なだけの、将来の、来ようとしている神の国の食事」などという意味があるそうです。連続した人生の日々を生かす糧を、今日という日にも与えて下さい、との祈りです。今日の日だけの糧を与えて下さいという刹那的な祈りではなく、また未来永劫食うに困ることがないように豪華な食事を与えて下さいということでもなく、日々、自分が生かされるための食事を、今日も同じように与えて下さい、という日常的な祈りです。
 キリスト者は食事の前に神さまへの感謝の祈りをささげます。食卓に整えられたものが、たとえ自分の働きの結果得られたものであったとしても、それを神さまから与えられたものとして感謝していただく。食前ですから、くどくどと祈る必要はありません。短く、毎回同じ言葉であったもよいと思います。

〔食前の祈り〕
父よ、あなたのいつくしみに感謝してこの食事をいただきます。
ここに用意されたものを祝福し、
わたしたちの心と体を支える糧としてください。
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

〔食後の祈り〕
父よ、感謝のうちにこの食事を終わります。
あなたのいつくしみを忘れず、
すべての人の幸せを祈りながら、
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

『日々の祈り』、35ページ、36ページ


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