静まりの時 エレミヤ23・1~4
日付:2024年04月18日(木)
1 「わざわいだ。わたしの牧場の群れを滅ぼし散らしている牧者たち──主のことば。」
2 それゆえ、イスラエルの神、主は、私の民を牧する牧者たちについてこう言われる。「あなたがたはわたしの群れを散らし、これを追い散らして顧みなかった。見よ、わたしはあなたがたの悪しき行いを罰する──主のことば──。
3 しかしわたしは、わたしの群れの残りの者を、わたしが追い散らしたすべての地から集め、元の牧場に帰らせる。彼らは多くの子を生んで増える。
4 わたしは彼らの上に牧者たちを立てて、彼らを牧させる。彼らは二度と恐れることなく、おびえることなく、失われることもない──主のことば。
「牧者たち」とは、この場合イスラエルの指導者たちのことで、「わたしの牧場の群れ」とは、イスラエルの民のこと。しかし今日キリスト教会が読むとすると、「牧者たち」は、あまねく人びとを導くべく立てられたさまざまな指導者たちで、「わたしの牧場の民」は、すべての人びとを指すのだと思います。教会においては、牧者は牧師や指導的な立場の者を、民は教会に集う会衆や地域社会の人びとに当てはめることもできると思います。
牧者たちの悪しき行いとは、群れを滅ぼし、追い散らして顧みなかったこと、です。そのような牧者たちの悪しき行いを、主は罰するといわれます。そうして主は、その追い散らされた群れをふたたび元の牧場に帰らせる、と語られました。
このような箇所を読むと現代のパレスチナの地域における現代イスラエル国家一国による独占統治を想像することもあるかもしれません。しかし主が語られた回復の預言は「彼らは多くの子を生んで増える」、「彼らは二度と恐れることなく、おびえることなく、失われることもない」ということですから、圧倒的な平和の中に実現されるのです。今日のパレスチナ地域で行われていることは、武力による恐怖ですから、聖書の心とは全く異質なことです。即時停戦が神の心であることは十字架と復活の主を信じる者にとっては疑う余地もありません。
それはそうとして、主はここで再び平和を築くために「わたしは彼らの上に牧者たちを立てて、彼らを牧させる」といわれました。ご自身が統治されるのかと思いきや、牧者たちをお立てになるのです。
私はこの「牧者たち」という言葉に心が留まりました。牧者、ではなく、牧者たち。単数ではなく複数なのです。
もちろん群れの大きさを考えると指導者も一人では難しいので複数となっていると考えることもできます。しかしそうではなく、複数の話し合い、交わりの中に、群れが統治されていく、顧みられていく、牧されていく、こと。リーダーシップが一人の人に集中するのではなく、執行部の話し合いや交わりの中にリーダーシップがあるとすること。そこに主の聖心(みこころ)があるように思いました。
一人の人間の力、判断力には限界があります。間違いも犯します。良かれと思ってやったことが群れを散らしてしまうことも起こってきます。そもそも、ここで群れを追い散らしてしまった牧者たちも、もともとは主によって立てられた人たちでした。しかしいつの間にか罰せられなければならないことになったのです。
牧者たち、であり続けること。形として牧者たちではあっても、そこに交わりがなく、自由な意見交換がないならば、牧者たちではなく、牧者となっています。牧者たちであり続けるためには、牧者、が孤独の中に落ち込むことのないような配慮、あるいはシステムが必要です。
教会に一牧者という形が多くの教会の現実ですが、教会には包括団体があり、教師はその包括的な団体の交わりの中から遣わされる。その包括的な団体に置ける教師の交わり、話し合い、研鑽の豊かさが、牧者ではなく牧者たちを形作っていく。具体的な包括団体だけではなく、さまざまな牧師たち、伝道者たちの交わりの中にある「牧者」による牧会。そこでこそ、「彼らは二度と恐れることなく、おびえることなく、失われることもない」という豊かな牧会がなされるのではないか。
今回の旅によって得たことはいくつもありましたが、その中の一つに「再発見」がありました。40年以上前にお世話になった宣教師にお出会いするのが主な目的でしたが、この旅のお世話をしてくださったのが、今はリタイアされていますが、数年前まで同労者として団体においてともに奉仕をした先生方でした。その先生たちが日本におられるときは、同労者ということ以上の感覚はなかったと思います。しかし今回の旅で、ともに旅をする中で「友」としての関係を再発見したように思います。ともに旅をし、三食をともにし、たわいのない会話をしながら時を過ごす。多くの愛の関係には必然や愛さずにはいられない何らかの要素があります。親子の愛には本人にはどうすることもできない運命、宿命、摂理があります。夫婦の愛には、選択の自由があるように見えますが、どうしようもない恋愛感情があります。しかし友情という中に生まれている愛は、おおよそそういった必然がなく、まったくの自由の中に生まれるものでしょう。友情はかなり純粋は愛なのです。
指導的な立場に立つ人は、どこか孤独を強いられるところがあります。しかし牧会が孤独の中になされるとすると、かなりゆがんだものになるのではないか。牧者は、牧者たちでなければならないのです。
もとより教会は合議制を大切にしますから、牧者は、役員会においてすでに、牧者たち、となっています。この役員会の交わりは、教会の健やかさになくてはならないものです。さらにこの春から正式に副牧師を主は備えてくださいました。「牧者たち」になる道がより一層豊かにされていると思います。