乳を飲ませる羊を優しく導く

静まりの時 イザヤ40・9~11
日付:2024年04月17日(水)

9 シオンに良い知らせを伝える者よ、
 高い山に登れ。
 エルサレムに良い知らせを伝える者よ、
 力の限り声をあげよ。
 声をあげよ。恐れるな。
 ユダの町々に言え。
 「見よ、あなたがたの神を。」
10 見よ。神である主は力をもって来られ、
 その御腕で統べ治める。
 見よ。その報いは主とともにあり、
 その報酬は主の御前にある。
11 主は羊飼いのように、その群れを飼い、
 御腕に子羊を引き寄せ、懐に抱き、
 乳を飲ませる羊を優しく導く。
(-9-11)

 11節を新共同訳でも読んでみます。

「主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め
 小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる。」(新共同訳、イザヤ40・11)

 新改訳で「乳を飲ませる羊」を新共同訳では「その母」と訳しています。
 乳を飲ませる羊は、母なのだと思います。たとえそこに血のつながりがなくても、母、と呼ぶべきなのだと思います。逆にいくら血のつながりがあったとしても、乳を飲ませることをしないならば母とは呼べないかもしれない。
 母という漢字は、胸に乳房のある女性からで成り立っているそうですから、文化を超えて乳を飲ませることと母とは密接に結びついているようです。
 天地万物を造られた神さまは、生きものに子を産むという方法をお与えくださいました。そういう方法で、子孫をはぐくみ地に満ちるようにとご計画されました。瞬時にすべてを創造することのできるお方が、そうされたのです。
 乳を飲ませること。肉体が成長するのに必要な栄養を与えるということ以上の深い意味を考え、できるだけ母乳をと考えることも想像に難くありません。私の母は忙しかったので、哺乳瓶を口に加えさせ、それを布団で固定して授乳させていたようですが(笑)、やはりその懐に抱き授乳させることには、安心感や幸福感を生み出すことなのだと思います。母乳であれば、おのずと懐に抱くことになります。母の息遣いや鼓動を全身で感じながら乳を飲むことに大きな意味があるのでしょう。
 子に乳を飲ませるのは、文字どおりは女性である母だけの役割かもしれませんが、それが育てるということの象徴的な言葉であるとすれば、また男女が一体となるのがこの前提であるとすれば、男女を超えて、親は子に乳を飲ませる存在である。この重大な役割を女性だけが担わなければならないとすれば、限界があります。夫が、家族が、社会が支えていかなければなりたちません。
 先日の旅行の際、ドイツから日本へ帰るとき、幼い子を連れた若い女性が同じ飛行機に乗っておられました。容姿から中東からの方かなと思しきその女性は、子どもがぐずると、一所懸命にあやしておられます。おそらく周りを気遣って不安だったことでしょう。わが娘のことを重ね合わせると、エールを送りたくなります。

 神さまは、子羊をその御腕に引き寄せ懐に抱いてくださるだけでなく、その乳を飲ませる羊、母羊をも優しく導いてくださいます。すべての者が、神さまに御手の中に安心していること。
 神さまはただ導いてくださるのではなく、優しく導いてくださいます。優しいという言葉は、英語訳では「gently」(ジェントリー)と訳されていて、紳士的なイメージが膨らみますが、この「優しい」という漢字を考えると、人偏に憂いと書きますから、人が憂えている、痛みを背負っている、苦しんでいる、という姿のほうが文意に近いのかもしれません。
 母羊も子羊もともにその懐に抱いてくださる主は、まことの優しさをお持ちのお方です。母羊の罪も、子羊の罪も、自らが十字架において担ってくださった主。母羊の悲しみも、子羊の悲しみも、自分のものとして受け止めて下さった主。まことに激しい優しさが、主の優しさです。自分のわがままを押し通させてくださったり、そのために言いなりになってくださったりすることを、人間は優しさと呼びたいかもしれません。しかし主の優しさは、まことに激しい優しさ。十字架で自らの肉体を裂くがままにされた優しさです。
 99匹と1匹の羊のたとえ話(ルカ15章)に登場する失われた羊は、私はどこか子羊と思い込んでいますが、案外母羊なのかもしれません。


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