静まりの時 エゼキエル11・14~21
日付:2024年03月14日(木)
14 そのとき、次のような主のことばが私にあった。
15 「人の子よ。エルサレムの住民は、あなたの兄弟、同胞、あなたに買い戻しの権利がある親類の者たち、またイスラエルの全家のすべての者に対して、こう言った。『主から遠く離れよ。この地はほかでもないわれわれの所有地として与えられているのだ。』
16 それゆえ言え。『神である主はこう言われる。わたしは彼らを遠く異邦の民の中へ移し、国々の中に散らした。しかし、わたしは彼らが行ったその国々で、しばらくの間、彼らの聖所となっていた。』
17 それゆえ言え。『神である主はこう言われる。わたしはあなたがたを諸国の民の中から集め、あなたがたが散らされていた国々からあなたがたを呼び寄せ、あなたがたにイスラエルの地を与える。』
18 彼らがそこに来るとき、すべての忌まわしいもの、すべての忌み嫌うべきものをそこから取り除く。
19 わたしは彼らに一つの心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を与える。わたしは彼らのからだから石の心を取り除き、彼らに肉の心を与える。
20 こうして、彼らはわたしの掟に従って歩み、わたしの定めを守り行う。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。
21 しかし、忌むべきもの、忌み嫌うべきものの心を、自分の心として歩む者には、その行いを頭上に返す──神である主のことば。」
(14-21)
「エルサレムの住民」が「あなたの兄弟、同胞、あなたに買い戻しの権利がある親類の者たち、またイスラエルの全家のすべての者」すなわち同じイスラエル人に対して、「主から遠く離れよ。この地はほかでもないわれわれの所有地として与えられているのだ。」と言いました。
かつてエジプトの奴隷であったイスラエルの民が、モーセに導かれてエジプトを脱出し、約束の地に入植しました。民は一つとなって、新しい地で神さまを中心とした新しい国を築いていきました。しかし一つであったはずの民は、不信仰、権力争いによって間もなく分裂しました。次々に立つ王は、信仰に生きる者もいればそうでない者もいる始末です。やがて異邦人に侵略され、民の一部は異教の国に捕囚の民となりました。一方エルサレムに残された人々もいました。彼らには亡国の苦しみとともに自分たちが残されたことの悲しみも重なりました。こうして、捕囚の民と残された民との間には埋めることのできない溝が生まれたのです。
エルサレムにずっと住み続けることになった人びとは、捕囚の民に向かって主張します。「この地はほかでもないわれわれの所有地として与えられているのだ」。
あるいは捕囚の苦しみを経験した人々も、エルサレムに残されていた民に向かって言います。「この地はほかでもないわれわれの所有地として与えられているのだ」。
同じ民でありながらそこに分裂が起こっていました。これは、ユダヤ人とサマリア人、律法学者やパリサイ人と、罪びとと呼ばれた人たち、生粋のユダヤ人と異邦人など、さまざまな対立的な形の中に起こります。ユダヤ人への迫害、アラブの人びとへの迫害、資本主義と共産主義、社会主義との間の対立、さまざまな民族、人種間の問題、性的マイノリティー、ジェンダー、中近東の問題などなど。
人間は生まれながらに律法主義者である、とある先生は言われました。信仰をもっていつの間にか律法主義者に陥るというのではなく、もともと人間は律法主義者なのだと。
律法主義とは、自分の行為の結果、祝福がやって来る、祝福がないとすれば、それは自分の行為が足りないからだ、と考えることです。
自分の生活を戒め矯正するためには有益かもしれません。しかしこれは容易に他者にも当てはめられて行きます。互いに相手の不信仰、あるいは自分との違いを指摘し見下していくのです。そうして分裂していきます。イエスさまが地上を歩まれた時代のパリサイ人のようです。純粋を求めて、現体制を否定します。どんどん分裂していきます。自分たちこそ正しい、自分たちこそ純粋な信仰に生きている、聖書に忠実に生きているのだと、他者を否定していきます。
しかし神さまは言われます。
「わたしは彼らを遠く異邦の民の中へ移し、国々の中に散らした。しかし、わたしは彼らが行ったその国々で、しばらくの間、彼らの聖所となっていた」のだよ。
あなたから見れば、不信仰の中にあったように見えるかもしれない。不十分であったかもしれない、生ぬるく見えるかもしれない。しかし、神であるわたしが、彼らが歩んだその先々で彼らとともにいて、彼らの聖所、彼らの神となっていたのだよ、と。
だから神であるわたしが、あなたがたすべてにあらためて言う。
「わたしはあなたがたを諸国の民の中から集め、あなたがたが散らされていた国々からあなたがたを呼び寄せ、あなたがたにイスラエルの地を与える」。
彼らもあなたも含めて、「あなたがた」を集めるのは、神であるわたしなのだ。そうしてそのわたしが、彼らがそこに来るとき、彼らの中から、
「すべての忌まわしいもの、すべての忌み嫌うべきものをそこから取り除く」。
神であるわたしが、
「彼らに一つの心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を与える。わたしは彼らのからだから石の心を取り除き、彼らに肉の心を与える。こうして、彼らはわたしの掟に従って歩み、わたしの定めを守り行う。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる」。
しかしそうしてもなお、
「忌むべきもの、忌み嫌うべきものの心を、自分の心として歩む者には、その行いを頭上に返す」。
神さまの愛の中に新しく生かされる者となって、なお神さまの喜ばれないようなものを、自分の心として歩む者に対しては容赦はしない、と。しかしそこでもさばくのは神であるわたしであって、あなたがた人間ではない、と。
「彼らに一つの心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を与える。わたしは彼らのからだから石の心を取り除き、彼らに肉の心を与える。こうして、彼らはわたしの掟に従って歩み、わたしの定めを守り行う。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる」。(19,20)
石の心とは、神さまの愛を受け入れない、どこまでも自己中心的な頑なな心、ということでしょう。それに対して肉の心とは、柔らかく温かい心、血の通った心、互いに受け入れあい、愛し合い、互いを自分よりも優れた者と思って大切にしあうような心です。
神さまはそのような「肉の心」を与えて下さいます。
その温かい肉の心を私たちに与えて下さるために、神さまは肉をまとってくださいました。受肉してくださいました。そしてそのお身体を裂いて、これがわたしのからだです、と私たちに分け与えて下さいました。聖餐式の時に牧師の語る言葉。
「この聖餐にあずかるとき、キリストは、私たちのうちに親しく臨んでおられます。またこの聖餐は、私たちが、主の愛のうちに一つであることをあらわすものです」。
牧師の祈り。
「いま、このパンとぶどう酒を祝し、聖別してください。御前に砕かれた心をもって、主の肉と血とを受けることにより、救いの恵みが確かであることを覚え、私たちが、キリストにあって一つであり、互いに主にある家族であることを覚えて、この交わりをいよいよ厚くし、共に福音のあかしに生きる者としてください」。
主イエスさまは、今日も私たちとともにいて下さり、私たちとの交わりを喜んでくださいます。その交わりの輪の中に、さまざまな人たちがいることを、私たちも喜びたいと思います。