新しい歌を主に歌え。

静まりの時 詩篇98・1~9
日付:2024年03月12日(火)

賛歌。
1 新しい歌を主に歌え。
 主は奇しいみわざを行われた。
 主の右の御手 聖なる御腕が
 主に勝利をもたらしたのだ。
2 主は御救いを知らしめ
 ご自分の義を国々の前に現された。
3 主は イスラエルの家への
 恵みと真実を覚えておられる。
 地の果てのすべての者が
 私たちの神の救いを見ている。
4 全地よ 主に喜び叫べ。
 大声で叫び 喜び歌い ほめ歌を歌え。
5 主にほめ歌を歌え。竪琴に合わせて。
 竪琴に合わせ ほめ歌の調べにのせて。
6 ラッパに合わせ 角笛の調べにのせて
 王である主の御前で喜び叫べ。
7 海とそこに満ちているもの
 世界とその中に住むものよ 鳴りとどろけ。
8 もろもろの川よ 手を打ち鳴らせ。
 山々も こぞって喜び歌え。
9 主の御前で。
 主は 地をさばくために来られる。
 主は 義をもって世界をさばき
 公正をもって諸国の民をさばかれる。

 「新しい歌を主に歌え。主は奇しいみわざを行われた。主の右の御手 聖なる御腕が
 主に勝利をもたらしたのだ。主は御救いを知らしめ ご自分の義を国々の前に現された。」(1,2)

 新しい歌を主に向かって歌いたいと思います。

「全地よ 主に喜び叫べ。大声で叫び 喜び歌い ほめ歌を歌え。」(4)

 新しく歌うとは、主に向かって喜びをもって歌うことです。
 どんなに現代的な歌を歌っても、そこに喜びがなければ新しいとは言えません。喜びをもって主に向かって歌うならば、その歌は常に新しい。新鮮な驚きに満ちています。
 喜びの源泉は、主の愛にあります。

「主は イスラエルの家への 恵みと真実を覚えておられる」(3)。

 神さまはイスラエルに対する「恵みと真実」をお忘れになることがない。私たちがたとえ忘れられても仕方がないような状態になったとしても、お忘れになることがない。その喜びを歌う時、私たちは常に新しい歌を歌います。

「その人は言った。『あなたの名は何というのか。』 彼は言った。「ヤコブです。」 その人は言った。『あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたが神と、また人と戦って、勝ったからだ。』」
(創世記32・27,28)

 ヤコブが、新しくイスラエルという名を神さまから与えられたのは、「ヤボクの渡し場」での、神さまとの格闘の時でした。「神と、また人と戦って、勝った」のでイスラエルという名が与えられたのです。
 しかしヤコブは勝ったのだろうか。「ももの関節」が打たれてそれ以降足を引きずるようになったヤコブは、ここで神さまに勝ったのだろうか。まるで小学生が横綱と対戦して、しつこく組みついてくる小学生をいなした横綱のように、神さまはヤコブを扱われただけではないか。ヤコブは自らが神さまに勝利したと喜んだのだろうか。神さまが、ヤコブに勝てないのを見てとったとは書かれているが、ヤコブ自信誰よりも、自分が神さまには勝てないということを痛感した出来事だったのではないか。
 このヤボクの渡し場での出来事は、兄エサウとの再会の備えでした。かつて兄エサウから卑怯な方法で長子の権利を奪い取ったヤコブ。その兄との再会は、恐怖だったのだと思います。それを前にして一人神さまの前に祈りの格闘をした。それは神に勝利するという戦いではなく、神が勝利する戦いだったのではないか。そこで得た謙遜は、何よりも兄エサウとの再会の備えだったのではないか。
 そこで与えられた名前、イスラエル。イスラエルは、神に勝利するという意味だそうですが、しかし神が勝利する、という出来事を想起する名前だったのではないか。ヤコブとは呼ばれない。神さまが勝利されるのだ、と。
 神さまの前に一人出て、祈りの格闘をし、自らの弱さを知り、神さまの絶対的な強さを知ることによって頂いた謙遜は、和解の場への備えなのです。

 イエスさまが、優柔不断なシモンに向かって、あなたはペテロ、岩である、と言われたように、ヤコブに対してイスラエルと言われた神さま。世にあっては、弱く小さなものであるにもかかわらず、神さまを喜ぶ者として召された。選ばれた。その喜びを歌う時、私たちは、いつも新しい歌を歌うのだと思います。


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