罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です

静まりの時 マタイ26・26~30
日付:2024年03月11日(月)

26 また、一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、神をほめたたえてこれを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取って食べなさい。これはわたしのからだです。」
27 また、杯を取り、感謝の祈りをささげた後、こう言って彼らにお与えになった。「みな、この杯から飲みなさい。
28 これは多くの人のために、罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です。
29 わたしはあなたがたに言います。今から後、わたしの父の御国であなたがたと新しく飲むその日まで、わたしがぶどうの実からできた物を飲むことは決してありません。」
30 そして、彼らは賛美の歌を歌ってからオリーブ山へ出かけた。

 私が聖餐式のときに読む式文は日本同盟基督教団発行の『式文』ですが、この中の「式辞」は次のようになっています。

「ただいまから、主イエス・キリストが定められた聖餐式を執り行います。聖餐は、主イエス・キリストが、十字架にかかられる前夜、弟子たちと最後の食事をとるとき、パンを取り・・・」。

 ここに「弟子たちと最後の食事をとるとき」に行なわれたパン裂きとぶどう酒の杯が聖餐式の起源であると語られています。
 最後の食事、最後の晩餐。しかし聖書をよく読むとイエスさまはこう語っておられます。

「わたしはあなたがたに言います。今から後、わたしの父の御国であなたがたと新しく飲むその日まで、わたしがぶどうの実からできた物を飲むことは決してありません。」(29)。

 「わたしの父の御国であなたがたと新しく飲む日」。その日までぶどうの実からできた物を飲むことはない。しかしその日が来れば再び食卓を共に囲むのだ、と語っておられます。地上では最後の晩餐かもしれない。しかしわたしと共に与る食卓は、やがての時に再開される。そのように語っておられるのです。

 弟子たちは、これが最後の晩餐であるということを知らなかったとともに、最後の晩餐ではないということも知りませんでした。
 聖餐式。こののち、二千年間、教会は大切に行ない続けてきました。

 「新しい契約」。それまでもなされてきた契約が、新しくされた。まったく新しい時代が始まった。そのしるしが聖餐式であると語られています。

「28 これは多くの人のために、罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です。」

 「新しい」とはどういうことであるのか。
 私たちは、「過去」と切り離されて存在することが出来ません。過去を引きずって生きています。過去の出来事が、私をさいなむ、ということもあります。逆に過去の出来事が今の自分を支えている、ということもあります。過去が今の私から力を奪ったり、逆に力づけたりする。おおよそ過去の上に、今がある。
 そのような私たちにとって「新しい」とは、今からのことが、過去の一切にかかわりなく存在する、行われる、と語られていること。
 では、過去の記憶を一切消し去り、今までなされた言動をなかったことにするのか。そうして存在する新しいことなのか。それは私たち人間には不可能です。
 不可能なので、どうしても過去を引きずって生きざるを得ない。しかしそこで「新しい」と語られる。それはティーリッヒだったでしょうか、過去が「ゆるされる」ということによって、今を新しく生きる者とされる、と。
 引きずらなければならなかった過去が、赦される、ということ。そうして私たちは新しく生きる者とされる。その新しさ。赦しにおいて成就される新しさ。

 イエスさまが、聖餐において新しい契約と言われた杯は、「多くの人のために、罪の赦しのために流される、わたしの契約の血」でした。それは、旧約聖書で行われてきた犠牲の血という宗教的な行事をリニューアルされたということもあるかもしれませんが、神さまによる罪の赦しがここに神さまの一方的な契約として神さまご自身が成り立たせてくださったことから、私たちがいつでも新しく生きることが出来る「新しい契約」を語っているような気がします。

 聖餐式にあずかるとき、私たちは、いつも新しい契約の中に生かされていることを深く覚えます。罪が赦されていること。それは私の過去が赦されていること。聖書の語る罪の赦しは、過去、現在、将来の罪、すべての赦しのことですが、ことさら過去の一切の罪が赦されていること。そうして私たちはいつでも、新しく生きることが出来るのです。

「ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。これらのことはすべて、神から出ています。神は、キリストによって私たちをご自分と和解させ、また、和解の務めを私たちに与えてくださいました。」(第2コリント5・17,18))

 神さまによって自らの罪の一切が赦されたとの確信。その確信をいただいた者は、また和解の務めのために遣わされていきます。
 「赦されている」そうして「新しくされている」、「新しい契約」に生かされている、神さまと和解している。そのような者だけが、和解の務めのために派遣されます。
 過去が赦されていない。神さまは赦していてくださるのに、それを受け入れることが出来ず、自分が自分を赦していない。そういう時、私たちは、和解の務めを果たすことが出来ません。言動が自らの赦しを証明するためのものとなってしまうので、遣わされる先では戦いをしてしまうことになります。

 弟子たちが、この最後の晩餐が最後の晩餐であり、最後の晩餐でないことを知ったのはのちのことでしょう。主を裏切る者となった自分たちへの、主の愛は変わることなく注ぎ続けられている。主に赦されている。その主の愛に再開した時、あの時の食事が、最後の晩餐であったこと、そして最後の晩餐ではなかったことを知ります。

19 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちがいたところでは、ユダヤ人を恐れて戸に鍵がかけられていた。すると、イエスが来て彼らの真ん中に立ち、こう言われた。「平安があなたがたにあるように。」
20 こう言って、イエスは手と脇腹を彼らに示された。弟子たちは主を見て喜んだ。
21 イエスは再び彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。」
22 こう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。
23 あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦されます。赦さずに残すなら、そのまま残ります。」
(ヨハネ20・19-23)

 復活の主と出会った弟子たちは、主の赦しを確信し、和解の使者として遣わされていきます。


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