神を恐れよ。神の命令を守れ。 これが人間にとってすべてである

静まりの時 伝道者12・9~13
日付:2024年03月09日(土)

12 わが子よ、さらに次のことにも気をつけよ。
 多くの書物を書くのはきりがない。
 学びに没頭すると、からだが疲れる。
13 結局のところ、
 もうすべてが聞かされていることだ。
 神を恐れよ。神の命令を守れ。
 これが人間にとってすべてである。
14 神は、善であれ悪であれ、
 あらゆる隠れたことについて、
 すべてのわざをさばかれるからである。

 「思索し、探求し」て書物を書く。そうして多くの書物を書く。それにはきりがない、際限がない。きりのないことに没頭するならば、からだが疲れる。この疲れは、一日の労を終えた後のさわやかな疲れではなく、途方に暮れる疲れであり、絶望に結び付いています。信仰における学びはそうであってはならないと思います。
 信仰の学びの目的は「神を恐(畏)れること」です。神を恐れることとは、神の戒めを守ることです。これが人間にとってすべてである、と聖書は語ります。
 神さまこそ、まことのさばき主(ぬし)です。神さまがさばきの主(しゅ)であることを信じているということは、「私」はさばき主(ぬし)ではない、私がさばきの主となろうとする一切のことを捨てます。
 おおよそ学ぶということは、何かを判断し、何かを選り分ける作業をしていることですから、それは、自らがさばき主となる道でもある。しかし信仰の学びは、そうではなく、神さまがさばき主であることを学ぶこと。そうして神さまを恐れる、畏れること。
 ですから信仰の学びには、必ず祈りが必要です。祈りつつ学ぶ。学びつつ祈る。そうしてひたすら謙遜の道を歩むのです。
 おおよそ学ぶということは、何かの高みを目指すことですが、信仰の学びは低きに降ることを目標とします。へりくだり、謙遜が身に付かない学びは、この世の学問ではあるかもしれませんが、信仰の学びではありません。
 信仰の学びは、低きに降ること、自らが何も知らない者であることを知ること。自らの罪を知り、汚れを知ること。そうして神さまの聖さ、義、愛を学ぶこと。それが真理である神さまを学ぶことです。

「謙遜とは、真理のなかに歩み入ることです」
アヴィラのテレジア(1515~1582)


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