静まりの時 第二ペテロ3・13~18
日付:2024年03月08日(金)
13 しかし私たちは、神の約束にしたがって、義の宿る新しい天と新しい地を待ち望んでいます。
14 ですから、愛する者たち。これらのことを待ち望んでいるのなら、しみも傷もない者として平安のうちに神に見出していただけるように努力しなさい。
15 また、私たちの主の忍耐は救いであると考えなさい。愛する、私たちの兄弟パウロも、自分に与えられた知恵にしたがって、あなたがたに書き送ったとおりです。
16 その手紙でパウロは、ほかのすべての手紙でもしているように、このことについて語っています。その中には理解しにくいところがあります。無知な、心の定まらない人たちは、聖書の他の箇所と同様、それらを曲解して、自分自身に滅びを招きます。
17 ですから、愛する者たち。あなたがたは前もって分かっているのですから、不道徳な者たちの惑わしに誘い込まれて、自分自身の堅実さを失わないよう、よく気をつけなさい。
18 私たちの主であり、救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい。イエス・キリストに栄光が、今も永遠の日に至るまでもありますように。
(13-18)
主にある者は、新しい天と新しい地を待ち望む人生へと招かれました。神さまはご真実なお方です。必ず新しい天と新しい地をもたらしてくださいます。
待ち望みの人生は、何もしないでボケっと待っているだけの人生、無為な時間を過ごしている人生ではありません。
待ち望みの人生は、「しみも傷もない者として平安のうちに神に見出していただけるように努力しなさい」、「私たちの主の忍耐は救いであると考えなさい」、「不道徳な者たちの惑わしに誘い込まれて、自分自身の堅実さを失わないよう、よく気をつけなさい」、「私たちの主であり、救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい」。努力し、考え、気を付け、成長する信仰生活です。なんと能動的でダイナミックな人生でしょう。
14節は、新共同訳では次のように訳されています。
「だから、愛する人たち、このことを待ち望みながら、きずや汚れが何一つなく、平和に過ごしていると神に認めていただけるように励みなさい。」
「平安のうちに神に見出していただける」という言葉は、やがての時に平安をもって神さまの前に出て行くことが出来るような生活を日々送りなさい、という意味ですが、この新共同訳では「平和に過ごしている」ことが、いまこの時に神さまに認めていただけること、そのように励みなさい、と強調されているような感じがします。
待ち望みの生き方は、やがての時と、今の時が、別々のことではなく、つながっています。やがての時の喜びが、今この時に先取りされています。また今この時の生き方が、やがての時への期待を形づくってきます。「いずく(こ)にありても御国の心地す」(新聖歌268)。
「また、私たちの主の忍耐は救いであると考えなさい。愛する、私たちの兄弟パウロも、自分に与えられた知恵にしたがって、あなたがたに書き送ったとおりです」(15)。
主が再臨の時をまるで遅らせていてくださる、本当は今すぐにでも再臨の時がやって来てもおかしくない、しかし主はいまだ再臨がないのは、主が忍耐していてくださるのだ、恵みの時なのだ、だから主に喜ばれるように生きていこう。神の国と神の義を第一に求めて行こう。そのことは、使徒のパウロも様々な手紙に置いて書いている。生粋のユダヤ人であり、律法に忠実なパリサイ人であったパウロが、その豊かな知恵をもって書き著している。
「その中には理解しにくいところがあります。無知な、心の定まらない人たちは、聖書の他の箇所と同様、それらを曲解して、自分自身に滅びを招きます」(16)。
パウロの豊かな知恵によって書かれた手紙には、ちょっと難解なところがあるかもしれない。それをいいことに、曲解する者がいる。とくに無知な心の定まらない人たちがそうしている。問題は、パウロの手紙にあるのではなく、それを曲解する人たちの無知にある。定まっていない心のありようが問題なのだ、と。
パウロは、義人は一人もいない、人間は律法によるのではなく、ただひたすら神さまへの信仰によって義とされるのだ、と書き著しています。いわゆる信仰義認です。それを、心の定まらない人たちは曲解する。どのように曲解するのか。
「ですから、愛する者たち。あなたがたは前もって分かっているのですから、不道徳な者たちの惑わしに誘い込まれて、自分自身の堅実さを失わないよう、よく気をつけなさい」(17)。
パウロの手紙を曲解して、不道徳な生き方を正統化している、ということでしょう。律法によるのではなく信仰による、という言葉。それは、行いによるのではなく、信仰による、とも書かれていることですが、それを、行いはどうでもよい、ひたすら信じていれば、行いなどどうでもよいのだ、との主張を生み出している、ということでしょう。
これはキリスト教会の歴史上、さまざまな形で生まれてきた主張でもあります。16世紀の宗教改革は、キリスト教信仰は行いではなく信仰である、と強調したことだったのですが、それを行いなどどうでもよい、信じていれば救われているのだから何をしていたって天国に行けるぞ、という勢いでかなり道徳的に逸脱した時代を迎えます。産業革命、人口の都市集中化などがそれに拍車をかけました。そのような中からもう一度、神さまの喜ばれる生活をしようとの運動が起こります。その一つがイギリスにおいてジョン・ウェズリーたちにによって始まった運動でしょう。きちんとした生活をするということから、彼らはメソジスト(メソッド=方法、几帳面屋さん)と呼ばれます。今日のきよめ派の教会の多くは、この運動を始まりとしています。メソジスト、ホーリネス、ナザレン、救世軍、などなど。日々聖餐式をし、聖書に親しみ、神さまの御心を追い求め、隣人愛に生き、社会的弱者の解放のために努力する。そんな生き方は、世間からはカトリック返りだと揶揄されたようですが、彼らはイエスさまのお心に生き続けました。
イエスさまを信じる信仰に生きる者は、きよい生活、を追い求めるのです。努力し、考え、気を付け、成長する信仰生活へと招かれているのです。