静まりの時 詩篇42・1~11(2~12)
日付:2024年03月07日(木)
1 鹿が谷川の流れを慕いあえぐように
神よ 私のたましいはあなたを慕いあえぎます。
2 私のたましいは神を
生ける神を求めて 渇いています。
いつになれば 私は行って
神の御前に出られるのでしょうか。
3 昼も夜も 私の涙が
私の食べ物でした。
「おまえの神はどこにいるのか」と
人が絶えず私に言う間。
4 私は自分のうちで思い起こし
私のたましいを注ぎ出しています。
私が祭りを祝う群衆とともに
喜びと感謝の声をあげて
あの群れと一緒に
神の家へとゆっくり歩んで行ったことなどを。
5 わがたましいよ
なぜ おまえはうなだれているのか。
私のうちで思い乱れているのか。
神を待ち望め。
私はなおも神をほめたたえる。
御顔の救いを。
(1~5)
谷川の流れを慕いあえぐ鹿。身体が水分を求めている。渇いていることを自覚している。渇きを感じることがないと水分補給が後回しになり身体を壊してしまいます。渇きを感じるので水分補給への心が動きます。渇くことは大切なことです。
日本は比較的水の豊かな土地だと思います。しかし災害で水の供給の絶たれているところがあります。困難を想像すると胸がいたみます。
世界には降水量が豊富でないところ、灌漑設備が整っていないところがあります。動物たちも旱(ひでり)の中で水を求めます。緑豊かな中、谷川をそよそよと流れる水を想像したくなりますが、この詩篇は荒れ地の過酷さの中に歌われました。雨季には川となるワディ。しかし乾季にはその川は地表から消滅します。
地表から消滅した谷川。しかし地中深くには水が流れています。鹿は、その地表から隠されている川を、その水のにおいを嗅ぎ分けます。眼には見えない水路を知っています。信じています。
地中に流れているその水路が地上に出るところ、オアシスがあることを信じています。水のにおいを嗅ぎ分け、その匂いに導かれて旅を続けます。やがてオアシスに出会うことを信じて旅を続けます。オアシス。鹿はやがて地表に現れたその豊かな水の流れに、身体全体を潤すことでしょう。
水の匂いを敏感に察知することのできる鹿ばかりではありません。鹿の中には、水の匂いに気づくことのできないものもいます。渇きをどのように潤せばよいのかを知らない鹿は、地中深く流れる水脈を知りません。しかし彼らの目にも、地中深く流れる水脈を信じて黙々と旅を続けるあの鹿たちの姿が見えています。「彼らはいったい何をしているのだろう。何を信じているのだろう。どこに向かって旅を続けているのだろう」。
水脈を信じて旅を続ける鹿たちが、それを知らない鹿たちの目印となり、彼らを導きます。地中深くに流れる水脈を信じて旅を続ける鹿たちの群れ。その隊列は、命をつなぐ一本の道となります。その道は、水脈を知らない多くの鹿たちの希望の道となります。「彼らについて行こう。そこに希望がある。永遠のいのちがある。救いがある」。
谷川の水を慕いあえぐ鹿のように、神さまへの信仰に生きるキリスト者たち。その信仰の道は、まだ神さまを知らない多くの人たちの希望となります。私の信仰の歩みが共に生きる人たちの救いの道を開きます。私たちがしなければならないことは、見えない水脈、しかし確かな水脈を嗅ぎ分けること。それを信じて旅を続けることです。
「昼も夜も 私の涙が 私の食べ物でした。」(3)
涙が食べ物である。悲しみしか食べるものがなくなるほどの絶望。
楽しみは、私たちに活力を与えます。しかし楽しみがなく、悲しみしかないのであれば、活力が与えられるどころか、いのちが潰えてしまいます。
悲しみの涙が食べ物となる。しかしそれは悲しみが、あらゆる絶望の中にあっても、人を生かす食物となる、ということかもしれません。悲しみしか食べるものがない。否、どんなに絶望しても、悲しみの涙という食べ物が残されている。人は、悲しみの涙を食すことによって、生きることが出来る。楽しみは活力を与えます。しかし、悲しみの涙は生きる底力を与えるのではないか。
それから、イエスは弟子たちと一緒にゲツセマネという場所に来て、彼らに「わたしがあそこに行って祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。そして、ペテロとゼベダイの子二人を一緒に連れて行かれたが、イエスは悲しみもだえ始められた。
そのとき、イエスは彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここにいて、わたしと一緒に目を覚ましていなさい。」
それからイエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈られた。「わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。」
(マタイ26・36-39)