信仰に基づいて神から与えられる義

静まりの時 ピリピ3・5~11
日付:2024年03月06日(水)

私は律法による自分の義ではなく、キリストを信じることによる義、すなわち、信仰に基づいて神から与えられる義を持つのです。(9)

 主にある者は、その手の中に持っているものがある。それは「義」である。

 「義」、正しいということ。私たちは何らかの「義」をもって生きています。義がなければ生きていけません。自分の語る言葉も自分なりの義から語っています。行動もそれぞれの義によって行動しています。
 私が正しいと思うことを語り行動している。私なりの義によって語り行動している。

 これはいつもいわゆる正しいことをしているというわけではありません。例えば銀行強盗という犯罪は悪いことです。正しいことではありません。しかし生活の苦であるとか、そうせざるを得ないような切羽詰まった状況というか、その理由がかなり自己中心的なものであっても、そのような行動に出る時というのは、その人なりの「義」を持っているのではないか。
 親が子どもを叱るときも、親は親なりの義を持っている。子どもが親に反抗する時も、子どもは子どもなりに義を持っている。大きなことで言えば、国と国の戦争も、それぞれに義を持っている。大義があるからこそ、あのような殺戮をすることが出来てしまう。
 おおよそ人間の言動、そして生きるということそのものは、それぞれなりの義によって生まれている。それはすべて「自分の義」です。歴史上に起こった宗教戦争、神の名によってと言われた戦いも、結局のところ権力者たちの「自分の義」によるものでしょう。

 パウロもかつては、そのような自分の義によって行動していました。生きていました。パウロはその自分の義を5節から数え上げています。

「私は生まれて八日目に割礼を受け、イスラエル民族、ベニヤミン部族の出身、ヘブル人の中のヘブル人、律法についてはパリサイ人、その熱心については教会を迫害したほどであり、律法による義については非難されるところがない者でした。」(5、6)

 しかしこれらのことを今は「損」(7)と思うようになった、「ちりあくた」(8)と考えている、と言います。なぜなら、今はキリストを信じているからである。「私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに」そのように思うようになった、考えるようになったと告白しています。

 パウロがこのように告白するのは、パウロが特別に信仰が豊かだからではありません。主にある者は、すべてこのように考えるのです。イエスさまを信じるということは、「自分の義」ではなく、「キリストを信じることによる義、すなわち、信仰に基づいて神から与えられる義を持つ」からです。
 自分の義によって生きるのか、それとも神の義によって生きるのか。二つに一つです。イエスさまを信じたと言いつつ、依然自分の義によって語り行動している、自分の義を満足させるために生きているとすれば、それはイエスさまを本当に信じているとはいえません。イエスさまを信じて新しくされた、自分の義によって生きる者でなくなった、にも関わらず、自分の義によって生きようとするのは、しんどいことでしょう。自転車で通勤していたところを、タクシーでの通勤と変わったのにも関わらず、相変わらず自転車通勤をしようとしているようなものです。自転車の場合は、健康にはそのほうがよいかもしれませんが、信仰は生き死にの問題です。喜びと感謝で生きる道へと招かれたにも関わらず、相変わらず我力で生きようとしているのは滑稽なことです。

 「私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに」。キリストは私の主である、その私の主であるキリストを知っている。それは本当にすばらしいことである。そのすばらしさによって、自分の義を満足させていたさまざまなことを、ちり、あくた、損、と思うようになった。今は新しく生きるようになった。その新しさとは「信仰に基づいて神から与えられる義」によって生きることである。キリスト者の喜びは、この「信仰に基づいて神から与えられる義」によって生きることにある。

 9節は共同訳では

「私には、律法による自分の義ではなく、キリストの真実による義、その真実に基づいて神から与えられる義があります」。(9)

 「キリストを信じることによる義、すなわち、信仰に基づいて神から与えられる義」は「キリストの真実による義、その真実に基づいて神から与えられる義」と訳されています。

 信仰というと、神さまに対する私の心のあり方です。しかしこの文意には、神さまに対する人間の何かが語られているのではありません。自分の義によるのではない、と語っているのですから。自分の義によるのではない、と語りつつ、自分の信仰、と言った場合、神さまに対する私の業としての信仰を考えるようになってしまいます。どれだけの時間を祈ったか、どれだけ聖書を読んだか、どれだけ奉仕をしたか、などなど、先ほどのパウロがちり、あくた、損と数え上げたことと同じです。たくさん祈ったから、あなたには特別に神の義をたくさん上げましょう、というのは、キリスト教信仰ではありません。少なくともここでパウロの語っている信仰ではない。
 そういう私の業ではなく、ひたすら神さまの業によるもの、キリストの真実による義。もう少し誤解を恐れずに意訳するとすれば、イエスさまが私たちを信じてくださる、信頼してくださる、そこに立ち現れる義、この義は、そうしてこそ神さまから与えられるものなのです。私が信じたという私の行為によって、そのご褒美に神さまが与えて下さる義というのではなく、ただひたすらイエスさまのご真実によって与えられる義、私はというとまったく真実ではないのです。しかしその不真実な私に義を与えようとされる神さまの義。それが神さまのご真実である、というのです。これは当時のユダヤにあった信仰ではまったく考えられない「神の義」「神の真実」です。あるいはおおよそ宗教と呼ばれるもの、あるいはさまざまな人生訓、処世術にも登場することのなった「神の義」「神の真実」。私たちは、この神の義、神の真実に生かされています。

 ですから私たちは、自分の義を数えること、自分の義を誇ることから、完全に解放されています。自分の義を数えなければ生きられない、自分の義を誇らなければ生きていけない、という、その奴隷状態から解放されたのです。なんと自由な人生でしょう。
 ただイエスさまのすばらしさ、そのイエスさまを知るすばらしさを、日々味わいながら生きて行けばよいのです。生かされていることの喜びを味わっていればよいのです。


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