静まりの時
- テーマ:よみがえりの主に出会う
- 聖書箇所:エペソ1・16~23
- 日付:2026年05月12日(火)
20 この大能の力を神はキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上でご自分の右の座に着かせて、
21 すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世だけでなく、次に来る世においても、となえられるすべての名の上に置かれました。
22 また、神はすべてのものをキリストの足の下に従わせ、キリストを、すべてのものの上に立つかしらとして教会に与えられました。
23 教会はキリストのからだであり、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところです。
教会は建物ではなく、キリストを信じた者たちの群れのことです。新約聖書の原文ギリシャ語では、エクレシア、という言葉が使われています。エクレシア、とは、~から(エク)呼び出される(カレオ)という意味の言葉です。キリストを信じた者たちとは、神さまによって呼び出された者たち、召しだされた者たちのことなのです。
その教会とは、キリストが頭となられたところであり、またキリストのからだであり、そしてキリストが満ちておられるところであるとパウロは語ります。
教会を単なる人の集まるところと考えると、その機能的なことだけを考えるようになりただの道具のようになります。しかし文字通り、キリストが頭となっておられるところ、キリストのからだ、キリストが満ちておられるところ、と考えると、教会自体が信仰の対象、あるいは信じるもの、ということになります。
使徒信条に、「われは、公同の教会を信ず」と告白します。まさに教会は信じるものなのです。この教会への信仰が見失われると、信仰自体に歪みがでてきます。
もちろん偶像のように教会を信じるなどということではないのですが、教会を信じるということを、教会を愛する、と言い換えてもよいかもしれません。教会は愛するものなのです。
神さまを愛しているといいつつも、目に見える兄弟姉妹を愛していないならば、神さまを愛していることにならないとヨハネが語りました(第一ヨハネ4・20)。兄弟姉妹を愛する、ということが、自分好みの兄弟姉妹は愛するが、そうでない兄弟姉妹は愛さない、ということであるならば聖書の語るところではありません。兄弟姉妹を愛する、ということを、教会を愛すること、として理解されることが大切であると思います。
兄弟姉妹を愛するということで教会を愛するということを大切にする信仰は、自己中心から解放された健康な信仰となります。キリスト教信仰は、自己中心の罪から解放されることなので、かならず教会への信仰が必要なのだと思います。