静まりの時
- テーマ:よみがえりの主に出会う
- 聖書箇所:第一ペテロ1・3~9
- 日付:2026年05月11日(月)
3 私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせ、生ける望みを持たせてくださいました。
キリストの復活によって、私たちは新しく生まれさせていただきました。そうして生ける望みを持たせてくださいました。生ける望み、すなわち死んで役に立たなくなったような希望ではなく、生きている希望、私たちの人生を変え、死も打ち破るるほどの力をもって私たちを活かす「生ける望み」を私たちは持っています。私たちが今日も希望にあふれて生きることができるのは、復活の主がともにいて、その復活の力で私たちを満たしてくださるからです。
4 また、朽ちることも、汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これらは、あなたがたのために天に蓄えられています。
5 あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりの時に現されるように用意されている救いをいただくのです。
資産を受け継ぐ、天に蓄えられている、終わりの時に現わされる。救いはいずれも将来のこととして語られています。
しかし9節には
9 あなたがたが、信仰の結果であるたましいの救いを得ているからです。
すでにいただいているものとして救いが語られています。救いは「いまだ」と「すでに」として記されています。
6 そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。今しばらくの間、様々な試練の中で悲しまなければならないのですが、
7 試練で試されたあなたがたの信仰は、火で精錬されてもなお朽ちていく金よりも高価であり、イエス・キリストが現れるとき、称賛と栄光と誉れをもたらします。
試練と聞くと、何か人生において起こる苦しみを想像しますが、聖書の語る試練とは、信仰の試練です。神さまを信じるか否かの試練です。たとえば、アブラハムは神さまから約束の子イサクを文字通りいけにえとしてささげるように言われました。そのことを聖書は試練といいます。
「これらの出来事の後、神がアブラハムを試練にあわせられた。」(創世記22章1節)
この出来事は、たとえばイサクが病気になったとか、アブラハムやサラが大変な目に遭った、ということではありません。神さまが、イサクをささげよと言われたこと自体が試練だったのです。ささげよと言われたイサクとは、このイサクから神の約束の子孫が生まれ出て増え広がると神さまご自身が言われた神さまの約束そのものでした。イシュマエルではなくイサクから神さまの祝福は実現するといわれた、その根拠そのものをささげよと言われたのです。まったくもって受け入れらないような申し出です。そのような理解不能な神さまからの申し出に、それでもあなたは従いますか、という問いに従うか否か、そのような事態でも神さまに信頼するか否か。それがアブラハムの試練だったのです。そしてそれこそ聖書が試練という言葉をもって語ることです。
教会にはさまざまなことが起こります。そのような中で教会を離れる人はいないわけではありません。しかし同時にそれでもなお教会にとどまり続け、イエスさまを礼拝し続ける人たちがいます。驚くべきことです。どんなに悲しまれたことだろうか。どんなに苦しまれたことだろうかと思います。それでもなお主に信頼し続ける人たち。私はそのような兄弟姉妹を見るごとに、そこに金よりも高価なものを発見します。キリストの現れのとき、再臨のとき、称賛と栄光と誉れがそこにもたらされることを夢みます。
8 あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに躍っています。
9 あなたがたが、信仰の結果であるたましいの救いを得ているからです。
そのような兄弟姉妹は、キリストを見たことはないけれども愛している、今は見ていないけれども信じている、ことばに尽くせない栄えに満ちた喜びに躍っている人びとです。それは、すでに、信仰の結果であるたましいの救いを得ておられるからです。これこそ、奇跡、です。