静まりの時
- テーマ:よみがえりの主に出会う
- 聖書箇所:使徒1・1~5
- 日付:2026年05月13日(水)
1 テオフィロ様。私は前の書で、イエスが行い始め、また教え始められたすべてのことについて書き記しました。
2 それは、お選びになった使徒たちに聖霊によって命じた後、天に上げられた日までのことでした。
使徒の働きの冒頭に書かれている「前の書」とは、ルカによる福音書のことです。ルカによる福音書の冒頭は以下の通り。
1 2 私たちの間で成し遂げられた事柄については、初めからの目撃者で、みことばに仕える者となった人たちが私たちに伝えたとおりのことを、多くの人がまとめて書き上げようとすでに試みています。
3 私も、すべてのことを初めから綿密に調べていますから、尊敬するテオフィロ様、あなたのために、順序立てて書いて差し上げるのがよいと思います。
ルカによる福音書と使徒の働きは、テオフィロ、という名前の人物個人に宛てて書かれました。このテオフィロ、という言葉は、神(テ(セ)オス)と愛(フィレオ)が結びついた言葉と想像させますので、もしかすると、テオフィロは、個人の名前というよりも、神さまを愛する人、あるいは神さまに愛されている人、と理解してもよいかもしれません。私たちのことですね。
新改訳2017では、ルカの福音書、使徒の働き、ともに「テオフィロ様」となっていますが、以前の訳では使徒の働きのほうは「テオピロよ」となっていて、ルカの福音書の書き方に比べて使徒の働きの方がやや砕けた印象、あるいは親しみのある印象、ルカとの精神的な距離の短さを感じます。もしかすると、ルカの福音書が書かれた時点では、テオフィロはまだ未信者であった、しかし使徒の働きが書かれたときには、受洗したキリスト者となっていたのかもしれません。教会の外の人であったテオフィロが、前の書、すなわちルカ福音書によって信仰をいただき、教会の仲間になったということかもしれません。
未信者に向かって信仰のいろはを語ろうとしたルカの福音書。それに対して信仰者となった人に向かってより深くキリスト者としての歩みを説こうとした使徒の働き。もちろんそのような区別は必要がないのかもしれませんが、初代教会の宣教の力強い息吹を感じます。私たちは一人の人の救いとその信仰の成長を願って、このような膨大は手紙を書くでしょうか。驚くべき救霊への情熱です。
3 イエスは苦しみを受けた後、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。四十日にわたって彼らに現れ、神の国のことを語られた。
4 使徒たちと一緒にいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。
5 ヨハネは水でバプテスマを授けましたが、あなたがたは間もなく、聖霊によるバプテスマを授けられるからです。」
4節の「一緒にいる」という言葉には、新改訳2017ではアスタリスクがついていて、欄外注を見ると「あるいは『食事をともにしている』」と書かれています。教会の兄弟姉妹が一緒にいる、ということは、食事をともにしている、ということであり、それは聖餐のテーブルを囲んでいる、という意味だと思います。
ここに「水のバプテスマ」と「聖霊のバプテスマ」という二つのバプテスマ(洗礼)という言葉が出てきました。
イエスさまの宣教に先立ち、道を備えるために現れたバプテスマのヨハネの行った洗礼をここで「水のバプテスマ」と言われています。これは別の個所では、悔改めのバプテスマ、ともいわれています(ルカ3・3)。
この水のバプテスマに対して、キリスト教会は、その形になぞらえつつ新しいバプテスマを授けるようになりました。それが、聖霊のバプテスマです。これも別の個所では、聖霊と火のバプテスマともいわれています(ルカ3・16)。
イエスさまが、大宣教命令(マタイ20・16~)の中で次のように言われました。
19 ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、
20 わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」
「父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け」なさい、とイエスさまは言われました。この言葉に従って教会では、父、子、聖霊の名においてバプテスマ、を授けています。教会が授けているバプテスマとは、聖霊のバプテスマです。水のバプテスマではありません。
「いやいや、聖霊のバプテスマというのは、異言などいわゆる霊的な体験を伴うものである」と説明されることがあるかもしれませんが、いちおう伝統的な教会では、教会において、按手を受けた牧師によって施される洗礼、父と子と聖霊の名によって授けられる洗礼が、聖書の幾箇所かに書かれている聖霊のバプテスマのことです。
信仰とは、自分の信じる力によって生まれ保たれているものではなく、神さまのご真実、その一方的な愛において生まれ、保たれているものです。自分の信仰力のような砂の上ではなく、イエスさまというゆるぎない岩を土台として建てられています。
ですから、自分が信じたという主観的な体験ではなく、他者である牧師が、他者の集団である教会の兄弟姉妹のまえで、客観的な日付をもって行われる洗礼こそ、信仰の土台とすべきです。
自分で握りしめている信仰であれば、自分の握力が弱くなれば手から離れてしまいます。しかし神さまに握りしめられている信仰であれば、いくら自分が弱くなったとしても信仰がなくなることはありません。神さまの圧倒的な握力によって私の信仰は支えられています。私たちの信仰は、揺れ動く私の感情の上にではなく、あの洗礼式という歴史的な事実を土台としています。