静まりの時
- テーマ:主のいましめ
- 聖書箇所:ガラテヤ3・15~20
- 日付:2026年05月09日(土)
18 相続がもし律法によるなら、もはやそれは約束によるのではありません。しかし、神は約束を通して、アブラハムに相続の恵みを下さったのです。
相続、すなわち神さまの恵みを継ぎ、神さまの恵みに生きる、そういった救われた状態は、律法を行うこと、すなわち律法主義によっていただくのではなく、神さまが結んでくださった約束による。神さまは、神さまを信じたアブラハムに祝福を約束された、そのときから430年たって奴隷から解放されたユダヤの民にモーセを通して律法が与えられたけれども、この律法によって先の約束が無効になったのではない、アブラハムになされた約束はいまも有効である。では律法は何のためにあったのか。それはキリストにおいて救いが完成するときまで、違反を示すために付け加えられたものである。では今となっては律法には意味がないのか。いやそうではない。私たちをキリストに導く養育係である。しかし今はキリストのものとされたので、私たちはもはや律法のもとにはいない、律法の影響下にはいない。律法主義からは完全に解放されている。ひたすら神さまの約束のもとに生かされている。ユダヤ人もギリシャ人も、奴隷も自由人も、男も女もない。すべてはキリスト・イエスにあって一つである。
創世記に記されているアブラハムはけっして罪を犯さない人ではありませんでした。しかしそのアブラハムに神さまは一方的に祝福すると約束なさったのです。その神さまをアブラハムは信じました。
6 アブラムは主を信じた。それで、それが彼の義と認められた。(創世記15・6)
この信仰によってアブラハムは義と認められたのです。この信仰をキリストは完成されました。私たちもキリストのものであるならば、アブラハムの子孫であり、約束の相続人なのです。
信仰とは、神さまの約束に信頼してキリストのものになる、ということです。