静まりの時
- テーマ:主のいましめ
- 聖書箇所:イザヤ42・18~25
- 日付:2026年05月05日(火)
24 だれがヤコブを、奪い取る者に渡したのか。
イスラエルを、かすめ奪う者に。
それは主ではないか。
私たちはこの方の前に罪ある者となり、
主の道に歩もうとせず、
そのおしえに聞き従わなかった。
身体的に耳も聞こえ、目も見えているにもかかわらず、神さまの御声が聞こえない、神さまが見えない、さまざまな事柄のなかに神さまに御手が見えない。信仰の耳を持って聞かなければ、神さまの御声は聞くことができない。信仰の目をもって見なければ、神さまの御業は見ることができない。
しかしひとたび信仰をもって見、また聞くならば、そこに神さまの豊かなお働きを知ることができる。
イスラエルが滅びに向かう中にあって、信仰の目をもってそのような状況を見るならば、そこに神さまの御手があることを見、信仰の耳を持って預言者の声を聞くならば、神さまの御声を聞くことができたはずなのです。
信仰の耳、信仰の目は、どのように備えることができるのか。どうすれば、信仰の耳と目は開かれるのか。
「私たちはこの方の前に罪ある者となり」。
神さまと私との間に「罪」があるので、神さまの御声が聞こえず、神さまの御業が見えない。そうであれば、この「罪」を取り除けばよいのですが、私の力ではそれは不可能である。そこで神さまはイエスさまを遣わしてくださり十字架と復活の御業をなしてくださいました。その神さまの御業を信じるならば、罪がすべて赦され、取り除かれて、神さまの御声が聞こえ、神さまの御業が見えるようになるのです。
ただ、これには、神さまと自分との間には罪がある、ということが前提とされていなければなりません。つまり、私が罪びとである、ということが認められていなければ、この道は開かれません。
神さまと私との間には、罪、がある、ということが認められる、私は罪びとである、ということが告白される、ということがあってはじめて、神さまの御声が聞こえ、神さまの御業が見える、という道が開かれるのです。
罪があるので、神さまとの断絶があり、神さまの御声が聞こえず、神さまの御業が見えない、のですから、私には罪がない、というところでは、一見神さまの御声が聞こえ、神さまの御業が見える、ということのように思えるかもしれません。しかしすべての人は罪びとですから、私には罪がない、というのは、罪がないのではなく罪に気づいていないだけです。罪があるにもかかわらず私には罪がない、と言い張るのは、自らを偽っている、事実誤認をしている、現実から目を背けているだけです。そこでは神さまの御声は聞こえず、神さまの御業は見えません。そもそも、義人はいない、という聖書の言葉が聞こえていません。私たちはみな罪びとなのですから、罪があるかないか、ではなく、私こそ罪びとであると認めるか認めないかが分かれ道です。そうして神さまによって罪を取り除いていただく信仰を持つか持たないかが、最大の分かれ道です。