さあ、私たちも主の光のうちを歩もう

静まりの時

  • テーマ:キリストの主権
  • 聖書箇所:イザヤ2・1~5
  • 日付:2026年05月02日(土)

それは、シオンからみおしえが、
 エルサレムから主のことばが出るからだ。
4 主は国々の間をさばき、
 多くの民族に判決を下す。
 彼らはその剣を鋤に、
 その槍を鎌に打ち直す。
 国は国に向かって剣を上げず、
 もう戦うことを学ばない。
5 ヤコブの家よ、
 さあ、私たちも主の光のうちを歩もう。

侵略者の脅威が迫る中、イザヤは平和のことばを語り続けました。戦いに備えて武器の増強を叫ぶ人びと、恐怖の中で希望を失う人びと、刹那的な生き方へと流れてしまう人びと。さまざまな人びとに向かって、希望の福音を語り続けました。

「もう戦うことを学ばない」。戦わない、ではなく、戦うことを学ばない、とイザヤは語ります。戦わないけれども、いざというときのためにやはり戦い方は学んでおかなければならない、というのではなく、戦いそのものを学ぶことしない、というのです。

戦い方を知っていると、戦ってみたくなるものです。武器を持っていると、使ってみたくなるものです。人間は愚かなのです。その愚かさをわきまえているからこそ、もう戦うことを学ばない、と語るのだと思います。

キリスト教会は、創世記からマラキ書の39巻の書物を、旧約聖書、と呼びます。旧約、すなわち旧い(古い)約束、契約。旧いからといって現在では意味がない、というのではありません。新約聖書によって、再解釈されました。新しいいのちをもって読まれる書物となりました。ですからキリスト教会でも旧約聖書を大切に読みます。しかしダイレクトに読むことをしません。イスラエル12部族は、教会を現していますから、イスラエル、ユダ、エルサレム、という言葉は、すべて教会、あるいはそれに準じたもの、すなわちキリスト者の群れを現している、と読み替えると間違いがないと思います。そうすると、「シオンからみおしえがで、エルサレムから主のことばが出る」は、教会によって語られる説教、あるいは聖書の教えということになります。そうして私たちは、「主の光のうちを歩」む者となります。


初代教会は旧約聖書をそのように理解して始まったのだと思いますが、しばしばダイレクトに読むことが起こりました。とくに16世紀宗教改革において、聖書のみ、が強調され、旧約聖書もウルガタではなくヘブライ語聖書、またヘブライ語から翻訳された各国語の聖書が読まれるようになると、ダイレクトに読まれることも起こりやすくなってきたのだと思います。それまで聖書だけでなく教会の伝統や文化も加味されてきた信仰が、聖書のみで立たなければならなくなったことから、偏重的に聖書を読むことになってしまったのだと思います。もちろん、聖書のみ、は大切なことですが、教会史的に、教理的、教理史的に読まないと、福音が消えてしまう可能性も起こってしまいます。さまざまな宗教も聖書を引用しているのですから。


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