静まりの時
- テーマ:キリストの主権
- 聖書箇所:マタイ20・20~28
- 日付:2026年04月28日(火)
ゼベダイの息子たちの年齢は記されていませんが、おそらく成人した大人だと思います。その息子たちのために母が願いをもってイエスさまのところにやってきました。いくつになっても母は母です。子どもたちの行く末の幸いを願っています。しかし私たちはこの記事を読んで、そんな麗しい母親の愛情を思うよりも、母の陰に隠れてこれ幸いとしている息子たちの異様な姿に言葉を失うのではないでしょうか。
イエスさまは自らが十字架につけられて死ぬことを語っておられたのです(19節)。それを聞いて、では天国に行かれたときには私の息子をあなたの右と左に座れるようによろしくお願いします、とこの母は願ったのです。人は自分のことが中心であるとはいうものの、これはあまりにもあまりのことです。私がイエスさまの立場だったら、いま何を話していたか聞いていましたか、と問い返したくなります。
しかしイエスさまは優しくそれに答えられました。それは父がお決めになることである、と。
さて問題はこの親子だけではありません。これを聞いた他の弟子たちは、腹を立てた(24)とありますので、皆も結局は自分の行く末の幸いのことしか考えていなかったのです。
そんな弟子たちにイエスさまは語られました。
25 そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者たちは人々に対して横柄にふるまい、偉い人たちは人々の上に権力をふるっています。
26 あなたがたの間では、そうであってはなりません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。
27 あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。
28 人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのと、同じようにしなさい。」
「人々に対して横柄にふるまう」「人々の上に権力をふるう」。それがこの世の権力者、偉くなりたい者の姿である。しかしあなたがたはそうであってはならない。本当に偉い人、というのは、人びとに仕える人である。先頭に立ちたいと思うならば、しもべになりなさい。私はまもなく十字架につけられる。それは多くの人のために贖いの代価として献げられるのだ。それと同じように人々のためにあなたがたも自らのいのちを人々に与えなさい、と。
これは一見厳しい言葉のようですが、低きに生きる者の平安を語っているように思います。高いところに登れば、そこから転落しないように戦々兢々として生きることになります。しかし自分らしく地に足をつけて生きるとき、安心して生きることができます。仕える者となる、というのは、平安の中に生きる秘訣なのです。