神の力によってキリストとともに生きる

静まりの時

  • テーマ:キリストに生きる
  • 聖書箇所:第二コリント13・3,4
  • 日付:2026年04月23日(木)

3 こう言うのは、キリストが私によって語っておられるという証拠を、あなたがたが求めているからです。キリストはあなたがたに対して弱い方ではなく、あなたがたの間にあって力ある方です。
4 キリストは弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力によって生きておられます。私たちもキリストにあって弱い者ですが、あなたがたに対しては、神の力によってキリストとともに生きるのです。

「こういうのは」とは前節の「今度そちらに行ったときには、容赦しません」という強い言葉のことだと思います。このような強い言葉を語るのにはわけがある。それはあなたがたが「キリストが私によって語っておられるという証拠」を求めているからだ、というのです。

パウロさん、あなたはほんとうにキリストによって語っているのか? ほんとうにキリストが語っている、というのならばその証拠を見せてくれ、証拠を見れば私たちはなっとくする。コリントの教会の信徒たちがパウロに対して、そのように陰ひなたに語っていたということでしょう。パウロはそのような非難に対して再三反論したのだと思います。私が語っているのは私ではなくキリストが語っておられるのだ、と。しかしコリントの教会の信徒たちは、自分たちの気に入る言葉が語られると、神さまが語っている、と受け止め、自分たちの気に入らない言葉が語られると、パウロの語ることばは、神の言葉ではない、といったのです。

「容赦しない」。日本語では、ゆるさない、というような意味ですが、原文では、差し控えない、遠慮しない、というような意味です。語らなければならない言葉を、今まではぐっとこらえて呑み込んできたが、今度ははっきりと語る。いうべきことを控えるようなことはしない、というのです。

愛はときに強い言葉をもって語られます。自分の子どもに危険が迫っているのを前に、強い言葉をもって叫ばない親はいません。もしそうしないならば果たして愛があるのかという気になるものです。パウロはたとえ自分が憎まれようとも、滅びに向かう人びとに向かって強く語らなければいられなかったのだと思います。

「キリストは弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力によって生きておられます」。十字架によって神の弱さがあらわされました。復活によって神の強さがあらわされました。

弱かったので、しかたなしに十字架につくことになってしまった、というのではありません。まことに強いお方が、わざわざ弱さの極致に身を置いてくださったのです。しかしその弱さの極致に身を置かれたキリストを、神は復活させられました。その弱さこそ、強い、ということを明らかにされたのです。今生きておらられるキリストとともに生きる私たちは、この全き弱さと全き強さをお持ちのお方とともに生きています。弱さの中に置かれるとき、そこにキリストはともにいてくださいます。強さに歩む時、その道にキリストはともなっていてくださいます。


投稿日

カテゴリー:

投稿者:

タグ: