自分にとって得であったこのようなすべてのものを、キリストのゆえに損と思うようになりました

静まりの時

  • テーマ:復活の信仰
  • 聖書箇所:ピリピ3・7~11
  • 日付:2026年04月16日(木)

7 しかし私は、自分にとって得であったこのようなすべてのものを、キリストのゆえに損と思うようになりました。
8 それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、私はすべてを損と思っています。私はキリストのゆえにすべてを失いましたが、それらはちりあくただと考えています。

パウロは、イエスさまを信じることによって、「自分にとって得であったこのようなすべてのもの」を損と思うようになった、と語ります。イエスさまを信じる前には得と思っていたすべてのものとは、その前節の5,6節に書かれていることでしょう。

5 私は生まれて八日目に割礼を受け、イスラエル民族、ベニヤミン部族の出身、ヘブル人の中のヘブル人、律法についてはパリサイ人、
6 その熱心については教会を迫害したほどであり、律法による義については非難されるところがない者でした。

生まれ、出自、また熱心さ、律法に対する態度など、人間的に見れば非難されるところがないほどに素晴らしい人物であった、というのですが、それらをイエスさまを信じて以来、損と思うようになった。さらには、ちりあくた、と考えるようになった、というのです。

キリスト教信仰に生きる、ということは、このような、大変革、をその人間にもたらすものである。聖書はそう語るのだと思います。

教会の歩みが難しくなる時のひとつは、この、大変革、が依然なされていない考え方で運営されるときです。いわゆるこの世が大切と考えていること、に終始してしまう、この世の価値基準で運営をしてしまう。もしかすると、そのほうがこの世的には立派な運営ができるのかもしれません。しかしいくら立派に見えても、教会としては、建て上げられていない、ということになります。

それは、私がキリストを得て、
9 キリストにある者と認められるようになるためです。私は律法による自分の義ではなく、キリストを信じることによる義、すなわち、信仰に基づいて神から与えられる義を持つのです。
10 私は、キリストとその復活の力を知り、キリストの苦難にもあずかって、キリストの死と同じ状態になり、
11 何とかして死者の中からの復活に達したいのです。

「認められるようになるため」、「復活に達したい」ということばは、今はまだそれらを得ることができていない、ということのように読めますが、そうではありません。私たちはイエスさまを信じたその瞬間から、キリストにある者と認められていますし、死者の中からの復活の力に生かされています。

このような言葉が表しているのは、いまだ得ていない、ということではあっても、将来それを得るかどうかわからない、ということではないのです。私たちはどうしても過去から将来に向かう時間の流れの中に生きています。ですから将来のことは、いまだ未確定、ということになっています。しかし神さまはそうではありません。アブラハム、イサク、ヤコブの神であり、アルファでありオメガ、最初であり最後である方は、時間を超越しておられます。そのお方に結びつけられたのですから、すでにすべてを得ているのです。しかし同時にいまだ得ていないということも事実です。この、すでに、と、いまだ、の緊張関係の中に私たちは生きています。その緊張関係の中にある私を神さまは御手の中に包み込んでいてくださいます。だからこそそれは生きているのではなく、神さまによって生かされている、ということなのだと思います。

時間的に私の前にあるものは、どうなるか分からない不安の中にあるのではなく、神さまの御手の中にある幸いに包まれています。ですからイエスさまを信じて以来、前にあるものを、未だ来ていないという意味で「未来」というのではなく、将に来たらんとしている「将来」と言うようになりました。

私は律法による自分の義ではなく、キリストを信じることによる義、すなわち、信仰に基づいて神から与えられる義を持つのです。(9b)

昨日ガラテヤ書でよく似た言葉を読みましたが、この節も、共同訳2018では以下のように訳されています。

私には、律法による自分の義ではなく、キリストの真実による義、その真実に基づいて神から与えられる義があります。

「キリストを(私が)信じることによる義」であるのか、それとも「キリストの真実による義」なのか。義は私の行為によるものなのか、それとも神さまが与えてくださるものなのか。

昨日のところでも書きましたが、私たちが信じた神さまが全知全能のまことの神さまであるならば、この二つのことはひとつです。


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