神の御子に対する信仰によるのです

静まりの時

  • テーマ:復活の信仰
  • 聖書箇所:ガラテヤ2・19~21
  • 日付:2026年04月15日(水)

19 しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストとともに十字架につけられました。
20 もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。
21 私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます。

「今私が肉においていきているいのち」。私たちは肉において生きています。生きているということは、この肉体に生きていることです。肉を保つためには、食べなければならない、息をしなければならない。霊と肉とは切り離すことができません。信仰に生きる、ということは、肉において生きる、ことなのです。

信仰をいただく以前はどうであったのか。おそらく霊と肉とがばらばらになってしまっていたのだと思います。

その私たちのいのちは「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられる」ことによって生きるようになりました。キリストが私のうちに生きてくださるようになって、本来の、私、に生きることができるようにしていただいたのです。「私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰」によって、健やかに生きる者とされました。

共同訳2018では、20節は以下のように訳されています。

20 生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです。私が今、肉において生きているのは、私を愛し、私のためにご自身を献げられた神の子の真実によるものです。

「神の御子に対する信仰」と訳されているところが、「神の子の真実」となっています。

私たちの信仰なのか、それとも、イエスさまのご真実なのか。

どちらか一方というのではなく、いずれも大切な意味を持っているのだと思います。あるいは、信仰、というもの自体がこの二つの意味を内包しているものなのかもしれません。信仰が全知全能のまことの神さまに対するものであるならば、その信仰は、自分が為すということに終始するものであるはずがありません。やはり神さまがご真実なお方なので、いまこの信仰に生きる者としていただいたのです。しかしかといって私は何もなしていないのか、ただ神さまのお働きのなかに自動的に救いにあずかったのか、ということそうでもありません。もしそういうことであれば、信仰などなくとも救われていることになります。

キリスト教信仰に生きるということは、ちょうど山の尾根を歩いているようなもので、常にどちらかに傾く危険性を秘めているのです。神さまの業か、人間の業か、と。この絶妙なバランスを保つためには、へりくだって自分を神さまにゆだねるしかないのだと思います。謙遜に生きるということが、信仰に生きることであり、また神さまのご真実に生かされることなのです。そうしてまことに人間に生きること、この肉において生きることなのです。


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