弟子たちは主を見て喜んだ

静まりの時

  • テーマ:復活の福音
  • 聖書箇所:ヨハネ20・19~29
  • 日付:2026年04月07日(火)

19 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちがいたところでは、ユダヤ人を恐れて戸に鍵がかけられていた。すると、イエスが来て彼らの真ん中に立ち、こう言われた。「平安があなたがたにあるように。」

20 こう言って、イエスは手と脇腹を彼らに示された。弟子たちは主を見て喜んだ。

「弟子たちは主を見て喜んだ」。喜びはどこに生まれるのか。聖書は、主を見た弟子たちの喜びが沸き起こったと記します。主を見る。そこに喜びが生まれる、と語るのです。

このとき弟子たちが見た主は、復活の主でした。主は、ご自分の手と脇腹を示されました。そこにはくっきりと傷跡がありました。あの十字架にかけられた主が、ここにおられる。いわゆる霊的な復活ではなく、からだをもって復活された。公生涯をともに歩んだ主ご自身が、復活され、ここにおいでになる。弟子たちは、その主との出会いに喜んだのです。

復活された主は40日間弟子たちに現れ、そののち昇天されました。いま私たちは、この肉体の目をもっては主を見ることができません。しかし信仰の目をもって主を見ることができます。肉体の目をもって見るよりもより深く、より確かに主を見ることができます。

レクティオ・ディヴィナという聖書の読み方がプロテスタント教会でも聞かれるようになりました。ある本には次のように説明がありました。

レクティオ・ディヴィナ(聖なる読書)

  • 読む(lectio) 聖句を読み、心にとまった言葉やフレーズに注意を向ける。
  • 黙想する(meditatio) 繰り返し聖句を読み、それを黙想する。
  • 祈る(oratio) 聖句を三回読み、祈りの中で神に応答する。
  • 観想する(contemplatio) 言葉を用いず、ただ神の御臨在を味わう。
    (スーザン・S・フィリップ、『修養する生活』より)

主を見る。観る。観想する。どこにおいても主を観る。祈りの道は喜びにあふれます。

主は「平安があなたがたにあるように」と語りかけてくださいました。恐れで鍵がかけられていた扉を越えて、主はやって来てくださり平安を語ってくださいます。


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