静まりの時
- テーマ:主の苦難
- 聖書箇所:マタイ22・15~22
- 日付:2026年03月31日(火)
15 そのころ、パリサイ人たちは出て来て、どのようにしてイエスをことばの罠にかけようかと相談した。
16 彼らは自分の弟子たちを、ヘロデ党の者たちと一緒にイエスのもとに遣わして、こう言った。「先生。私たちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれにも遠慮しない方だと知っております。あなたは人の顔色を見ないからです。・・・
パリサイ人たちとは、厳格に律法を守ろうとした人たちです。一方ヘロデ党の者たちとは、この世と妥協して生きることをよしとした人たちです。両者は犬猿の仲であるはずです。しかしその両者がここで一緒に行動しています。罪びとである人間は、目的のためには手段を選びません。ここで目的とは、イエスさまを「ことばの罠」にかけること、そして殺すことです。人間は、神を殺すためには手段を選びません。
17 ですから、どう思われるか、お聞かせください。カエサルに税金を納めることは律法にかなっているでしょうか、いないでしょうか。」
18 イエスは彼らの悪意を見抜いて言われた。「なぜわたしを試すのですか、偽善者たち。
19 税として納めるお金を見せなさい。」そこで彼らはデナリ銀貨をイエスのもとに持って来た。
20 イエスは彼らに言われた。「これはだれの肖像と銘ですか。」
21 彼らは「カエサルのです」と言った。そのときイエスは言われた。「それなら、カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい。」
22 彼らはこれを聞いて驚嘆し、イエスを残して立ち去った。
慇懃(無礼)なことばがつづき、税を納めることの律法の是非を問います。異邦人であり自らを神とするような者、カエサルに税を納めることは、律法を大切に考える者にとっては屈辱であり律法違反のようなものでしょう。かといって納めないでよいという答えは、ローマに楯突く者となり、公に犯罪者となってしまうかもしれません。どちらを答えても、自らを不利な状況に追い込む可能性のある問いは、まさに「ことばの罠」なのだと思います。
しかし主は答えられました。「カエサルのものはカエサルに」と。ここで引っ掛かることは、税として納めるお金を見せなさい、と主が言われると、彼らはデナリ銀貨を持ってきたということです。彼らは、デナリ銀貨を持っていたのです。つまり税を納めることをしていたのです。そのような彼らが、税の有無を問うというのはいかがなものかと思います。そこにも人間の罪性があるのだと思います。
主が言われたことは、カエサルのものはカエサルに、ということではありましたが、つづいて彼らの問いには期待されていなかったことを語られました。「神のものは神に返しなさい」。
神のものを神に返す。それがこの「ことばの罠」にかけようとしている人たちの問題である、さらには罪びとである人間すべての問題である、と語っておられるのだと思います。もし神のものを神に返す生き方をしているならば、そのような問いは生まれて来なかったのではないか。もし神のものを神に返す生き方をしているならば、主イエスさまを救い主として信じることができたのではないか。もし神のものを神に返す生き方をしているならば、もっと人生は輝くものとなったのではないか。主はそう言われるのだと思います。