静まりの時
- テーマ:いのちの約束
- 聖書箇所:第一テサロニケ4・13~18
- 日付:2026年03月28日(土)
13 眠っている人たちについては、兄弟たち、あなたがたに知らずにいてほしくありません。あなたがたが、望みのない他の人々のように悲しまないためです。
14 イエスが死んで復活された、と私たちが信じているなら、神はまた同じように、イエスにあって眠った人たちを、イエスとともに連れて来られるはずです。
眠っている人たち。すなわち、イエスさまを信じて生き、そして死んだ人たちのこと。天国にいる兄弟姉妹たちのことを、知らずにいてほしくない、とパウロは語ります。なぜなら、あなたがた、すなわち教会に生きる者たちが「望みのない他の人々のように悲しまないため」であると語ります。
これは、悲しまない、ということばが強調されて読んでしまうと間違ってしまいます。悲しまないのではありません。望みのない他の人たち、すなわちイエスさまを信じていない人たちのように悲しまない、ということです。ある先生は、イエスさまを信じている者は、望みのある者として悲しむのだ、と語っておられました。希望をもって悲しむ。それがキリスト者である、というのです。悲しみ、というものが、キリスト教信仰によって消滅するのではなく、色合いが変わってくる、変質する、のです。ですからキリスト教の葬儀において私たちは、悲しまないのではなく、希望をもって悲しみます。悲しみを大切にします。
「イエスが死んで復活された、と私たちが信じているなら」。ある先生は、「信じているからには」と言い換えておられました。イエスさまの復活を信じているからには、神さまはそれと同じように、イエスさまにあって死んだ人たちを、イエスさまとともに連れて来られるはずである、そうであるに違いない、そう信じて生きるのがあたりまえではないか、というのです。
兄弟姉妹の復活を信じることは、イエスさまの復活を信じている者にはあたりまえのこと、当然のことなのです。
これは、いわゆる霊魂不滅、ということではありません。復活です。霊魂不滅、死は肉体からの解放である、などというのは嘘です。人間は、死の恐ろしさを予感しながらも、真実には知らないのです。ですからごまかしや嘘で自分勝手に変容させて理解しようとします。死の恐ろしさを真実に経験されたのは、イエスさまだけです。ゲツセマネの祈りはそのことを明らかにしています。
そのイエスさまを神さまは復活させられたのです。主はからだをもって復活されました。肉体は大切なものです。復活を信じる私たちは、このからだをも大切にします。