静まりの時
- テーマ:十字架をとって
- 聖書箇所:エレミヤ20・7~12
- 日付:2026年03月13日(金)
9 私が、『主のことばは宣べ伝えない。
もう御名によっては語らない』と思っても、
主のことばは私の心のうちで、
骨の中に閉じ込められて、
燃えさかる火のようになり、
私は内にしまっておくのに耐えられません。
もうできません。
御言葉を語ることは、喜びなのですが、それは、いわゆる、語りたいから語る、というのとは少し違います。
人間の行動には三つの原理のようなものがあるとある先生が言われました。
一つ目は、やりたいからやる、というもの。これは、人間でなくてもやっています。
二つ目は、やりたいくないけれども、それをやることが自分にとって得だからやる、というもの。損得勘定による行動です。
信仰者であるか信仰者でないかにかかわらず、多くの場合この二つが人間の行動原理だと思いますが、これに対して三つ目の行動原理があるというのです。
それは、やりたくもない、やることが自分にとって得になるとも思えない、しかしやるという行動原理です。これはおそらく人間しかしないことであり、また信仰を持たない人には良く分からないことではないかと思います。
旧約聖書に登場する預言者、指導者、祭司たち、新約聖書に登場する弟子たち。いずれもこの三つ目の行動原理によって語り、また行動しています。
教会に生きる私たちに求められている生き方は、一つ目も二つ目も決して無視していいわけではありませんが、やはり三つ目の行動原理が必要とされているのだと思います。
エレミヤは、もう宣べ伝えない、と決意したにもかかわらず、み言葉が自らの骨の中で燃え盛る火のようになっている、といいます。語りたくもない、語ることが自分の益になることは到底考えられない。しかし語らなければいられない、というのです。説教者はみなこの心を持って講壇に立っています。もし説教者が、一つ目や二つ目の原理、すなわち、やりたいからやる、やりたくないからやならない、とか、あまりやりたくないけれどもやることが自分にとって得だ、ということで講壇に立っているとすれば、その講壇から語られる言葉は、神のことばにはなり得ないのだと思います。
説教だけではなく、教会における奉仕はすべてこの三つ目の原理で行われるべきです。