静まりの時
- テーマ:試練に勝つ
- 聖書箇所:第一コリント10・1~13
- 日付:2026年03月07日(土)
6 これらのことは、私たちを戒める実例として起こったのです。彼らが貪ったように、私たちが悪を貪ることのないようにするためです。
11 これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。
「彼ら」とは旧約聖書において記されているイスラエルの民のことです。彼らは、鮮やかに神さまの御業にあずかりましたが、たびたび神さまへの信頼を失いました。彼らは、偶像礼拝者になり、淫らなことを行い、キリストを試み、不平をいいました。その結果、多くの者が滅びされてしまいました。この出来事が起こったのは、イスラエルの民が悪を貪ったからですが、そのこと自体は「私たちを戒める実例として起こった」「彼らが貪ったように、私たちが悪を貪ることのないようにするため」「戒めのため」「世の終わりに臨んでいる私たちの教訓とするため」であったと聖書は語ります。
旧約聖書に記されているイスラエルの民を反面教師とする、とも取れますが、少し違います。悪を貪ってしまった結果、滅ぼされてしまった、そのことを反面教師として学び、自分たちの教訓と仕様、というのではなく、そもそも、そのようなことが起こったこと自体、今を生きる私たちの教訓とするために神さまがおゆるしになられたことなのだ、と語るのです。悪を貪る、という過去の否定的な出来事が、今を生きる私たちの教訓とするために神さまが用いておられる。いわば悪の出来事が善の出来事となっている。聖書はそう語るのだと思います。
これはまさに神さまの全能が明らかにされていることばだと思います。神さまは悪の出来事さえも善に造り変えることができるお方である、と聖書は語るのです。
これはイエスさまの十字架の出来事にも当てはまります。あるいは十字架の出来事こそ、全能の神さまのお力が最大限に発揮されたことである、と思います。
悪を犯しても構わない、ということでは全くありませんが、全能の神さまを信じるという生き方は、悪をも善に変えることの出来る神さまを信じることですから、大安心の中に生きることができるのです。