これは、彼らがわたしのおしえに従って歩むかどうかを試みるためである

静まりの時

  • テーマ:試みに勝つ
  • 聖書箇所:出エジプト16・4~12
  • 日付:2026年03月06日(金)

4 主はモーセに言われた。「見よ、わたしはあなたがたのために天からパンを降らせる。民は外に出て行って、毎日、その日の分を集めなければならない。これは、彼らがわたしのおしえに従って歩むかどうかを試みるためである。
5 六日目に彼らが持ち帰って調えるものは、日ごとに集める分の二倍である。」

食べ物がないといって不平を言うイスラエルの民に対して、神さまは「天からのパン」すなわちマナと呼ばれる不思議な食べ物を与えてくださいました。食べ物が与えらえられた目的は、民の空腹を満たすためだと想像できますが、聖書はそのようには書いていません。神さまがマナを与えられた目的は「これは、彼らがわたしのおしえに従って歩むかどうかを試みるためである」。試みる、すなわち試練として与えられたものである、と聖書は語ります。

試練というと、単に苦しみのことと理解しがちですが、このことばの意味は、試す、練る、ということですから、私たちが試され練られていく機会のことです。ではいったい何が試され、練られるのか。それは「信仰」です。神さまを信じること、神さまに信頼すること、神さまのみに信頼すること、神さま以外のものに人生の土台を置こうとしないこと。そのために与えられるのが試練です。
神さまが与えてくださったマナを、神さまのみおしえに従って集めるのか、それとも自分たちの欲望のままに集めるのか。マナ、すなわち食事において、神さまに従うがどうか、それが試されている、試練とされている、ということです。

毎日、その日の分を集める、六日目には二日分を集める。それだけのことです。しかしそれだけのことがイスラエルはできませんでした(16章20節ほか)。なぜできなかったのか。神さまのお言葉よりも、「自分」を優先したからです。自分の考え、自分の感情、自分の都合を優先する。そうして神さまからの試練に耐えなかったのです。聖書はこのように自分を優先することを「偶像礼拝」といいます。神さま以外のものを拝むことである、というのです。神さま以外の最大の存在、すなわち自分自身を拝んでいるのだ、というのです。

食事は「自分」が優先されやすい時かもしれません。しかし主にある者は、食前の祈り、そして食後の祈りをささげます。そこで食事を与えてくださる主の御名をほめたたえ感謝します。またつながる者たちの食卓の祝福を祈ります。世界の貧しい人たちのことを覚えます。そうして食事において主への礼拝をささげるのです。

16 主が命じられたことはこうだ。『自分の食べる分に応じて、一人当たり一オメルずつ、それを集めよ。自分の天幕にいる人数に応じて、それを取れ。』」
17 そこで、イスラエルの子らはそのとおりにした。ある者はたくさん、ある者は少しだけ集めた。
18 彼らが、何オメルあるかそれを量ってみると、たくさん集めた人にも余ることはなく、少しだけ集めた人にも足りないことはなかった。自分が食べる分に応じて集めたのである。

主が命じられたとおりにすると、「たくさん集めた人にも余ることはなく、少しだけ集めた人にも足りないことはなかった」。主が命じられたとおりにすると「自分が食べる分に応じて集めた」。自分の食べる分に応じて、生きる者となる。すなわち、自分自身に生きる、自分らしく生きることができるのです。

神さまのみに依り頼むとき、私たちは自分自身に、自分らしく生きることができます。しかし、神さまよりも自分を優先して生きるとき、かえって自分自身に生きることができなくなるのです。


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