私たちはキリストにあずかる者となっている

静まりの時

  • テーマ:試みに勝つ
  • 聖書箇所:ヘブル3・7~14
  • 日付:2026年03月03日(火)

14 私たちはキリストにあずかる者となっているのです。もし最初の確信を終わりまでしっかり保ちさえすれば、です。

別訳では以下の通り。

14 わたしたちは、最初の確信を最後までしっかりと持ち続けるなら、キリストに連なる者となるのです。(新共同訳)

14 私たちは、初めの確信を終わりまでしっかりと保つなら、キリストにあずかる者となるのです。(共同訳2018)

いずれも、「最初の確信を終わりまでしっかり保つ」、そうすれば「キリストにあずかる者となる」のです。今はまだあずかってはいないけれども、最初の確信を終わりまでしっかりと保ちさえすれば、あずかることができる、という意味ではなく、今すでにあずかっているのだから、そのすでにあずかっているものを終わりまでしっかりと保ちさえするならば、あずかることができる、という意味です。

「最初の確信」とは神さまへの確信ということだと思いますが、この場合6節に「しかしキリストは、御子として神の家を治めることに忠実でした。そして、私たちが神の家です。もし確信と、希望による誇りを持ち続けさえすれば、そうなのです」とありますので、私たちが神の家とされた、ということだと思います。

「キリストにあずかる」。新共同訳で「キリストの連なる者」とあります。もともとの意味は、食事などの分け前にあずかるという意味を持っていて、仲間である(ルカ5・7)、とも訳される言葉だそうです。

仲間とされているので、最後まで、その仲間である、神の家の一員である、ということの確信を保ち続けるならば、キリストの仲間としてその生涯を全うすることができる、というような意味になるかなと思います。

信仰を持つ、ということは、個人的な心の動きではありますが、キリスト教信仰の場合、それは個人主義的なことではなく、信仰共同体がつねに想定されているうえでの信仰ということになります。なぜなら「愛」を説くからです。愛するという場合、愛する対象が必要です。その対象は、必ずしも愛し易い存在ばかりとは限りません。しかしそれでも愛に生きようとする。それがイエスさまが私たちに教えてくださった信仰です。ですからどうしても共同体の中にいる、ということが必要なのです。すなわち教会における交わりが必要なのです。教会の仲間である、ということがあって初めて私たちは愛するということを学び愛するということに生きることができるのだと思います。交わりが拒否されているところで語られる愛は、真実の愛にはなり得ないのだと思います。


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