静まりの時
- テーマ:悔改め
- 聖書箇所:詩篇51・1~19
- 日付:2026年02月25日(水)
4 私はあなたに ただあなたの前に罪ある者です。
私はあなたの目に 悪であることを行いました。
ですから あなたが宣告するとき あなたは正しく
さばくとき あなたは清くあられます。
5 ご覧ください。私は咎ある者として生まれ
罪ある者として 母は私を身ごもりました。
「ダビデがバテ・シェバと通じた後、預言者ナタンが彼のもとに来たときに」と表題に説明があります。第2サムエル記11章,12章に記されている出来事です。
一国の王が部下の妻に横恋慕をし権力を用いて自分のものとし、その罪を隠すために部下を殺害したという出来事です。古代から権力者たちがやってきたことです。現代もそうかもしれません。しかしこの出来事が他の権力者たちのやってきたことと決定的に違うのは、この王が、神の国の王だったことです。神さまは黙ってはおられません。預言者ナタンを送られました。ナタンは王の罪を指摘し厳しく王に対峙します。
驚くべきことはこのナタンのことばに、王ダビデは悔改めた、ということです。王を責めたのは一介の預言者です。王の権力で亡き者にしてもだれも咎める者はないでしょう。バテシェバの夫ウリヤのように殺してしまう方法はいくらでもあったはずです。他の権力者たちであれば、躊躇せずそうしたに違いありません。宴会の慰み者としてバプテスマのヨハネを殺したヘロデのように。しかし王ダビデは違いました。悔い改めたのです。
ダビデは自分がだれに対して罪を犯したのかを知りました。そしてそれを告白します。「私はあなたに ただあなたの前に罪ある者です。私はあなたの目に 悪であることを行いました」。ことは神さまとの関係です。神さまは、正しく、清いお方である。罪を犯したダビデにはその信仰が生きていたのだと思います。自分は神さまに対して罪を犯したのだ、と告白しました。
罪を悔い改めるといったばあい、一体誰に罪を犯したのかは大切なことである、と思います。誰かに対して罪を犯したということも事実ですが、この、神さまに対して罪を犯した、ということが告白できるかどうかは決定的に重要です。
そしてもう一つの告白は、「私は咎ある者として生まれ 罪ある者として 母は私を身ごもりました」とあるように、今犯した罪だけではなく、そもそも自分は生まれながらの罪びとなのだ、ということが告白できるかも大切なことです。罪を犯したから罪びととなったのではなく、罪びとだったので罪を犯した、ということです。
キリスト者として生きる、ということは、罪を告白し悔い改めて罪びとでなくなって生きる、ということではなく、罪を告白し悔い改めた罪びととして生きる、ということなのです。