静まりの時
- テーマ:目をさまして
- 聖書箇所:黙示録3・14~22
- 日付:2026年02月21日(土)
19 わたしは愛する者をみな、叱ったり懲らしめたりする。だから熱心になって悔い改めなさい。
20 見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。
神さまは愛する者をみな、叱ったり懲らしめたりする、と言われます。叱られたり懲らしめられたりされるのは、神さまが愛していてくださるからです。もし叱られたり懲らしめられたりということが全くないとすれば、それは愛されているということがないといってもよいのかもしれません。少なくとも愛されていることを学ぶチャンスがありません。
神さまが愛するがゆえに叱ったり懲らしめたりされるのは、私たちが悔い改めに導かれるためです。神さまは私たちが悔い改めることをお望みなのです。
悔い改めというと、イエスさまを信じるときに、それまでの所業を告白し、神さまの前に謝罪することを思い出します。そのことが強調されると、それ以降は悔い改める必要がないように思う人もいるかもしれません。主の十字架と復活の御業は、私たちの過去、現在、将来の罪一切を赦しますから、一度悔い改めれば、もう大丈夫、という感じになるのも無理がありません。
しかし悔い改める、というのは、そういう行為、というよりも、人生の態度のことです。悔い改めのことを「方向変換」と説明されますが、常に神さまの方向を向く、そのために向きを変え続けている、ということ。私たちにはすぐに神さま以外の方向、すなわち自分自身に向う性質が沁みついています。そういう自分の人生が神さまの方向を向くように自分自身を導く。そういう生き方を悔い改めというのです。ですから常に行わなければならないことであり、特に礼拝においては毎回行わなければならないことです。
この悔い改めに生きるようにとイエスさまは「戸の外に立ってたたいて」いてくださいます。主の御声を聞いて、戸を開けるならば、主は私の中に入ってくださり、ともに食事をしてくださるのです。悔い改めとは、イエスさまを心の王座にお迎えし、ともに食事をすることです。
悔い改めとは、なにか厳しいことと想像しますが、じつは、イエスさまと一緒に食事をするという喜びのときであり、自分自身が養われるときなのです。悔い改めるごとに、自分自身は養われます。悔い改める数だけ、主との喜びの時間が充実し、人生が豊かなものとなるのです。神さまは私たちをそのように導きたいと願い、戸の外に立ってたたいていてくださいます。