静まりの時
- テーマ:主のいましめ
- 聖書箇所:第一ヨハネ2・7~11
- 日付:2026年05月08日(金)
7 愛する者たち。私があなたがたに書いているのは、新しい命令ではなく、あなたがたが初めから持っていた古い命令です。その古い命令とは、あなたがたがすでに聞いているみことばです。
8 私は、それを新しい命令として、もう一度あなたがたに書いているのです。それはイエスにおいて真理であり、あなたがたにおいても真理です。闇が消え去り、まことの光がすでに輝いているからです。
キリスト教は、突然興った宗教ではありません。先にユダヤの人たちの宗教がありました。バアルや他の神々ではなく、唯一まことの神、ヤーウェの神、創造神にして今も生きておられる神を礼拝する信仰がありました。
世界に向かってのお手本としてユダヤの人たちを神さまはお選びになられたのですが、律法主義によってまったくお手本とならないような事態を迎えました。そのようなとき、イエスさまはこの地に生まれて下さり、十字架と復活の御業を成してくださいました。律法を行うことによってではなく、イエスさまを信じる信仰によって、人は救いに生きることができるようにしていただきました。そうしてあらためて律法に生きることができる者へと招かれたのです。
そうして生まれたキリスト教会には、おのずと二つの考え方がありました。一つは、キリスト教会からは旧約聖書と呼ぶことになったヘブル語聖書に、あらためて忠実に生きようとすること。もう一つは、逆に旧約聖書はもはや時代遅れであり、無視しても構わない、むしろ切り捨てようとすること。この両者の間で少なからず軋轢が生まれました。
新約聖書の目的の一つは、この両者のどちらでもない、という立場を鮮明にすることでした。旧約聖書は時代遅れでも意味がなくなったわけでもない。意味は依然としてある。しかし新約聖書で解釈されなければならない。新約聖書で解釈されないと間違ってしまう。
では新約聖書だけでもよいのではないかという考えに対しては、そうではないと新約聖書自体が語ります。新約聖書で語られていることは、すべて旧約聖書の再解釈である。その範囲を超えてしまうと、キリスト教でなくなってしまう。そう考えたのです。
今朝の個所(第一ヨハネ2・7~8)も、そのことが明らかにされています。
9 光の中にいると言いながら自分の兄弟を憎んでいる人は、今でもまだ闇の中にいるのです。
10 自分の兄弟を愛している人は光の中にとどまり、その人のうちにはつまずきがありません。
11 しかし、自分の兄弟を憎んでいる人は闇の中にいて、闇の中を歩み、自分がどこへ行くのかが分かりません。闇が目を見えなくしたからです。
イエスさまを信じた瞬間から私たちは光の中にいる。光の中にいるので、人生をしっかりと歩むことができる。どこへ行くのかはっきりと分かっている。はっきりと分かるようにしていただいた。しかし、イエスさまを信じてせっかく光の中を歩むようにしていただいたにもかかわらず、依然、闇の中を歩んでいるような者がいる。それは、兄弟姉妹、すなわち教会の仲間を憎んでいる人、その人である。イエスさまを信じたと言いつつも、教会の信仰の仲間を憎んでいるならば、それは闇の中を歩んでいることなのだ。闇の中を歩んでいる、ということは、誰よりもその人自身に災いをもたらす。なぜなら、その人は自分がどこに行くのが分からないからだ。闇によって信仰の目が見えなくなっているからだ。ヨハネはそう語りました。
だからイエスさまを信じて光の中を歩むようになった私たちは、兄弟姉妹、すなわち教会の仲間を愛そうではないか。そうして光の中を歩んでいるならば、人生につまづくことはない。しっかりと人生を歩むことができるのだ。愛に生きるということは、何よりも自分自身が幸いに生きることなのだ、と、ヨハネは語ります。
ここで大切なのは、愛することであって、愛されることではない、ということです。たいてい人間は自分が如何に愛されているかをはかりにかけています。そうして人間関係を築こうとします。愛されていないと感じると、その人間関係を否定します。愛されていると感じると、その人間関係を積極的に評価します。
しかしそのような、自分が如何に愛されているか、を計算して生きる人生は、闇の中を歩む人生となります。なぜなら、人間はどうしても自分のことを最優先に考えますから、私のことを最優先に考えてくれることなどありえないからです。もしあったとすれば、そこには別の目的が存在しています。またそうして、逆に他者にコントロールされやすい人間になってしまいます。そのような人間の心理を巧みに利用して、さまざまな問題が起こります。
ただ愛することだけを考えて生きることは人間には難しいのです。ですからイエスさまを信じて光の中を歩む、ということは、イエスさまに愛されている、ということを大切に考えることです。イエスさまの愛で満たしていただくのです。イエスさまの愛で満たされることにスキが出来てしまうと、そこを誰かの愛で満たそうとしてしまいます。それはそれで大切なことですが、まもなくイエスさまの愛がなくなってしまい、人からの愛だけを求めるようになりがちです。そうなっては闇の中を歩むことになります。
自分に注がれたイエスさまの愛がどんなに大きなものであるのかを見失わないようにしたいと思います。