静まりの時
- テーマ:主のいましめ
- 聖書箇所:マタイ15・1~9
- 日付:2026年05月07日(木)
1 そのころ、パリサイ人たちや律法学者たちが、エルサレムからイエスのところに来て言った。
2 「なぜ、あなたの弟子たちは長老たちの言い伝えを破るのですか。パンを食べるとき、手を洗っていません。」
ここでパリサイ人、律法学者たちが問題にしている、手を洗う、は宗教的な意味においての手を洗うですが、イエスさまの弟子たちは食事の前にそれをしていなかったようです。それを目ざとく見つけたパリサイ人、律法学者たちが、エルサレムからガリラヤまで、約200キロ近い道のりをはるばるやって来て、イエスさまを非難したのです。誰かを非難するときの人間のエネルギーはものすごいものです。このエネルギーを愛することに向ければどれだけ素晴らしいかと思います。
それに対してイエスさまは、こう答えられました。
3 そこでイエスは彼らに答えられた。「なぜ、あなたがたも、自分たちの言い伝えのために神の戒めを破るのですか。
4 神は『父と母を敬え』、また『父や母をののしる者は、必ず殺されなければならない』と言われました。
5 それなのに、あなたがたは言っています。『だれでも父または母に向かって、私からあなたに差し上げるはずの物は神へのささげ物になります、と言う人は、
6 その物をもって父を敬ってはならない』と。こうしてあなたがたは、自分たちの言い伝えのために神のことばを無にしてしまいました。
イエスさまは、あなたがたこそ神の戒めを破っているではないか、と言われたのではなく、あなたがたも破っているのではないか、と言われました。イエスさまは自分たちは破っていない、あなたがたこそ破っている、などといわれたのではなく、確かに言い伝えは破っているかもしれない、しかしそれはあなたがたも同様ではないか、お互い様ではないか、なのになぜそんなに目くじら立てて他者を非難するのか、と問うておられるのです。
人を非難せずにはおれないとき、私たちは自分の正義にしがみついています。自分こそ正しいという思いにしばられています。そうして他者を非難します。自分は他者を非難することの出来るような者なのだろうか、と疑問を持つことがありません。あるいは自分の中にあるかもしれないと薄々感じている不正義や罪から目を背けるために、他者の罪性を論(あげつら)おうとしているのかもしれません。あるいは自分の正しさ、立派さを主張しようとしているのかもしれません。
「自分たちの言い伝えのために神のことばを無にしてしまいました」。
第一コリント15章3節以降をみると聖書は、言い伝え、を単純に否定しているわけではありません。キリスト教会も言い伝えられたものを大切にしてきました。ここでイエスさまが言われるのは、神のことばの優先性だと思います。聖書の語る基本的な戒めと、そこから派生した言い伝え。両者が相反するとき、どちらを優先すべきなのか。
それは憲法とさまざまな法律のような関係かもしれません。国会ではさまざまな法律がつくられていきますが、それらが憲法に、憲法の精神に反していないかは吟味されなければなりません。キリスト教信仰においては、聖書、あるいは信条に基づいて、教会のさまざまなルールがつくられていますが、それらが聖書や信条に基づいているかどうかが教会では吟味されなければなりません。
7 偽善者たちよ、イザヤはあなたがたについて見事に預言しています。
8 『この民は口先でわたしを敬うが、
その心はわたしから遠く離れている。
9 彼らがわたしを礼拝しても、むなしい。
人間の命令を、教えとして教えるのだから。』」
「人間の命令を、教えとして教える」。この文章は文意がつかみにくいように感じます。引用元のイザヤ書29章13節では以下のように書かれています。
「人間の命令を教え込まれてのことである」(イザヤ29・13c)。
人間のつくった教えを、神さまの教えとして教えている、それが問題である、という意味だと思います。
神さまを口先で敬っているだけで、本心から敬っていない、本心は神さまから遠く離れている、だからそのような心で神さまを礼拝しても、その礼拝は無意味である、中身のない、空っぽの礼拝である。主はそう言われました。
礼拝が真実なものとなるためには、そこで教えられている教えが、神のものであることが欠かせません。ここでパリサイ人たちが指摘した、手を洗う、という宗教行為も、もともとは中身のあったものだったのだと思います。しかしいつの間にか中身を失ってしまった。神さまから心が離れてしまいった。あるいは神さまの心から離れてしまった。
神の教えと称して人間のつくった教えを教えてしまうことになるのは、どこに原因があるのか。ここでパリサイ人や律法学者たちに欠落していたことはなんであるのか。
誰かを非難するために、はるばる200キロもの道のりをやってくるということ自体に、何か欠落しているものを感じます。どうして、お互い様ですね、と思うことができないのか。きっとそこにこそ人間の罪の深さがあるのだと思います。