静まりの時
- テーマ:主のいましめ
- 聖書箇所:出エジプト20・18~20
- 日付:2026年05月04日(月)
20 それでモーセは民に言った。「恐れることはありません。神が来られたのは、あなたがたを試みるためです。これは、あなたがたが罪に陥らないよう、神への恐れがあなたがたに生じるためです。」
モーセは神さまから聞いた十の言葉(十戒)を、民に向かって告げました。それを聞いた民は、神さまから直接聞くことによって自らが滅ぼされるのではないかと恐れました。それで神さまから直接ではなくモーセが自分たちに語るようにと願いました。
それに対してモーセは恐れることはない、神さまはあなたがたを試みるために語られたのだ、あなたがたが罪に陥らないように、そのためにあなたがたに神さまへの恐れが生じるためである、と。
モーセは、恐れている民に向かって、恐れることはない、といいつつ、恐れが生じるためであると語ります。恐れている民の「恐れ」と、モーセが民の中にあらためて生じることを願った「恐れ」。同じ恐れという言葉ですが、意味に違いがあります。後者の恐れは「畏れ」という字を当てはめることができると思います(新共同訳2018参照)。
罪に陥らないように、恐れではなく畏れをもつ。罪とは、神さまと私の間に立ちはだかって、私が神さまと交わるのを断絶するものでした。救われるということは、この障壁となっている罪が取り除かれて、神さまとの交わりが回復されることです。そのためには、恐れがなくなって、畏れが生じる必要があります。
キリストの十字架と復活によって救われる、ということは、キリストの十字架と復活を信じて、恐れがなくなり、畏れが生じることです。
神さまとの豊かな交わりは、この新しく生じる「畏れ」によって生まれ、育まれます。
畏れのないところに、神さまとの健やかな交わりは生まれません。つまり依然罪に陥ったままで救いはないのです。
「試みるため」。試練とは、信仰の試練であり、どのような中に置かれても神さまを第一とし神さまに信頼して生きるかどうか、ということが試されることです。そのために、神さまは語られます。罪とは、この試練に負けてしまって、神さま以外のものを第一として、神さま以外のものに信頼を置こうとする生き方です。偶像礼拝とも言います。
偶像礼拝に陥ることなく、神さまを第一とするために、十の言葉は語られました。恐れではなく、畏れを育んでいただいて、みことばに生きるならば、私たちは幸せに生きる者となります。