この宝を土の器の中に入れています

静まりの時

  • テーマ:キリストに生きる
  • 聖書箇所:第二コリント4・7~15
  • 日付:2026年04月22日(水)

7 私たちは、この宝を土の器の中に入れています。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものではないことが明らかになるためです。

「この計り知れない力」。新共同訳では「この並外れて偉大な力」。

この力が「神のもの」であること、そして「私たちから出たものではないこと」が明らかになるために、「この宝」を「土の器」の中に入れている。パウロはそう語りました。

土の器とは、自分自身のこと、あるいは自分の人生のことですが、弱くもろく、壊れやすいものという意味を持たせているのだと思います。自分自身は弱くもろいものです。

弱くもろいということは否定的なことですが、だからこそ、この福音の力が神さまのものであることが明らかになるのです。私たちが弱くもろいということが、神さまの圧倒的な力を明らかにするのです。もし私たちが強く輝いているならば、神さまの力は明らかになりません。私たちの弱さ、もろさが、神さまのお力を輝かせるのです。私たちの弱さ、もろさは、そのまま、神さまの圧倒的な力を輝かせます。福音の力を知った者は、自らの弱さ、もろさを甘んじて受け入れる者となります。弱さは大いに誇るべきものとなるのです。

それにしてもどうして神の力を、私たちから出たものではなく神のものであることが明らかにされなければならないのか。私たちから出たものである、ということがどうして明らかにされてはいけないのか。少なくとも、私たちからも出たものである、ということが明らかにされてもいいではないか。そう考えたくなるかもしれません。

おそらく、そのように「人間のわざ」が少しでも含まれてしまうと、福音が翳ってしまうからだと思います。測り知れない力であるにも関わらず、測り知れるものになってしまうのです。土の器であるにも関わらず、それを輝かせることに腐心しはじめると、どんどん福音の輝きが鈍ってしまいます。
人間があがめられるところでは、神さまの愛の輝きが消えてしまうのだと思います。

神さまの力は圧倒的なもの、測り知れないもの、並外れて偉大なものです。私たちがそれを偉大なものに見せることに努力する必要はないはずです。私たちはただ、自らが土の器であることを喜んで入ればよいのだと思います。


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