あなたがたは律法の下にではなく、恵みの下にあるのです

静まりの時

  • テーマ:キリストに生きる
  • 聖書箇所:ローマ6・1~14
  • 日付:2026年04月21日(火)

それでは、どのように言うべきでしょうか。恵みが増し加わるために、私たちは罪にとどまるべきでしょうか。決してそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうしてなおも罪のうちに生きていられるでしょうか。・・・ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪に支配させて、からだの欲望に従ってはいけません。また、あなたがたの手足を不義の道具として罪に献げてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者としてあなたがた自身を神に献げ、また、あなたがたの手足を義の道具として神に献げなさい。罪があなたがたを支配することはないからです。あなたがたは律法の下にではなく、恵みの下にあるのです。

私が救われた、ということは、罪びとである私が神さまから義と認められた、ということなのですが、罪を犯し続ける私を容認された、あるいは見過ごしにしてくださる、ということではまったくありません。

十字架によって救われた、ということは、私の身代わりに神さまがいのちを献げてくださって、もはや罪の代価を私が払う必要がなくなった、そうして罪を持ったままでは地獄に行くしかなかったのが、救われたので天国に行くことができる、というのは、一面の真理ではありますが、聖書の語るところはそれだけではありません。

聖書は、十字架によって救われる、というだけではなく、十字架と復活のよって救われると語ります。

つまり極端な言い方をすれば、十字架によって過去、現在、将来の罪がすべて赦されたので、今後罪を犯したところで大丈夫である、安心して罪を犯そう、ということであれば、それは聖書の語る救いでは全くない、似て非なるものである、と言わざるを得ないのです。

救われたということは、復活された主に向かって生きる、ということです。ですから当然のこととして、死ぬべきからだを罪に支配させない、からだの欲望に従わない、手足を不義の道具として罪に献げない、という覚悟がどうしても必要なのです。あるいは救われたということは、そう覚悟せざるを得ないことに私たちを招くのです。

それは再び律法のもとに生きることではないか、と懸念することがあるかもしれません。しかし罪と闘うのは、恵みのもとに置かれたからなのです。

それは、イエスさまという人格をお持ちの神さまとの出会いが鍵だと思います。


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