夕暮れには涙が宿っても 朝明けには喜びの叫びがある。

静まりの時

  • テーマ:復活の福音
  • 聖書箇所:詩篇30・1~12
  • 日付:2026年04月08日(水)

4 主にある敬虔な者たちよ 主をほめ歌え。
 主の聖なる御名に感謝せよ。
5 まことに 御怒りは束の間
 いのちは恩寵のうちにある。
 夕暮れには涙が宿っても
 朝明けには喜びの叫びがある。
6 私は平安のうちに言った。
 「私は決して揺るがされない」と。

夕暮れに涙が宿っています。一日の業を終え、自分の不甲斐なさを嘆き、悲しみます。いっそのこと消え去ってしまいたい。自らを苛みます。また、その歩みの中で傷ついたことが思い出されます。誰かを恨み、心の中で言い訳をします。そんな感情が心の中で、頭の中でぐるぐると回り続けます。時が過ぎていきます。夜は更けていきます。なすすべもなくいつか眠りにつきます。

しかし、それでも朝を迎えます。不思議なことが起こります。朝明けに心が変えられているのです。何かが変わったわけでもありません。ものの見方が変わったのだろうか。気分が変わっただけなのだろうか。

それもあるかもしれません。しかし眠ることしかできない。あるいは眠ることさえ自分ではできないのにいつの間にか眠り、何ひとつ自分では解決できない中にあっても、いのちが守られ、朝がやってくる。それは当たり前のことではないのだと思います。主が眠りを与えてくださいます。そして朝を迎えさせてくださいます。主は、私が眠っている間に備えてくださいます(詩篇127・2、新改訳第3版)。

ユダヤでは一日を、夕があり朝があった(創世記1章)、と数え、一日は日没から始まるとするそうです。私たちは一日の始まりを朝一番とするのが多いと思いますから、朝に、さあ一日が始まる、何から手をつけようか、となります。それに対してユダヤでは日没が一日の始まりですから、さあ一日が始まる、まず寝よう、ということになります。

寝る。何もできない状態の中に自らを横たえる。ゆだねるしかない状態に自らを置く。主が主となって導き支えてくださることにゆだねるしかない状態の中に自らを置く。そうして目をさますと、すべてが新しくなっている。事態は何ひとつ変わっていないかも知れない。しかし生かされて新しい朝を迎えることができたことのなかに、全能の神の御業を発見し、喜びの叫びをあげる。イエスさまを信じる者は、そのような生き方に招かれています。

主は、十字架の死ののち、陰府に降り、三日目に死人のうちよりよみがえられました。聖書にはその暗闇の三日間、陰府に降り、福音を語られたとも読める箇所があります(第一ペテロ3・19)が、むしろ、主の十字架の死は全き死であるのですから、その間はすべての活動がストップしているはずです。「陰府に降り」は、活動を語っているのではなく全き死を語っていると理解して、墓の中に身を横たえるしかなかったと理解してもよいと思います。

主は、その従順の中で父なる神さまにすべてをゆだねられたのです。活動的な公生涯の中で、活動を停止する、というときを過ごされました。アリマタヤのヨセフ、ニコデモ、そしてマグダラのマリアをはじめ女性たちの奉仕をただ受ける、というときを過ごされました。主は、完全な停止という驚くべき行動に打って出られたのです。そこには父なる神さまへの圧倒的な信頼があふれています。そして、それはまた自らを死に至らしめる人類を前にして、その中にも、アリマタヤのヨセフをはじめ幾人かの愛を信じられたのです。

その主を父なる神さまは復活させられました。私たちはその主を見上げて、今日も平安のうちに「私は決して揺るがされない」と、喜びの叫びを上げます。


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