私のうめきのことばにもかかわらず

静まりの時

  • テーマ:主の苦難
  • 聖書箇所:詩篇22・1~23
  • 日付:2026年04月02日(木)

1 わが神わが神
 どうして私をお見捨てになったのですか。
 私を救わず遠く離れておられるのですか。
 私のうめきのことばにもかかわらず。
2 わが神昼に私はあなたを呼びます。
 しかしあなたは答えてくださいません。
 夜にも私は黙っていられません。
3 けれどもあなたは聖なる方
 御座に着いておられる方イスラエルの賛美です。

私たちの主は、十字架上で息を引き取られるまえに、いくつかのことばを語られました。その中の一つがこの詩篇のことばでした。

いわゆるこの世の考える英雄、殉教者の最後としては、ふさわしくない言葉のように思えます。しかしここに私たちの救いが凝縮されています。

主は絶望の果てに死を迎えられました。それは絶望されていた、というのではなく、絶望を引き受けてくださった、絶望を一身に背負ってくださった、ということだと思います。

背負われた絶望が、真実に背負うものであるためには、真実に絶望しなければなりません。見せかけでは背負えていないのです。ですから主は絶望の叫びを叫ばれます。そういう意味では真実に絶望されているのです。

この絶望は、自らの希望や願望が絶えてしまった、というものではありません。神さまの救いが見えない、神さまとの関係が断絶されてしまった、という絶望です。

主の十字架の苦しみは、ここに極まります。自らの肉体が引き裂かれる身体的な苦しみ、弟子たちに裏切られ身に覚えのない罪によって殺されていく精神的な苦しみ。それに加えて、父なる神さまとの関係が断ち切られてしまう霊的な苦しみ。主はそのすべてを背負ってくださいました。

主はそのような究極的な苦しみの中で達観されていません。達観されているならば、それは絶望を真実には味わっていないということです。主は真実に苦しみを背負われたのですから、ここで叫ばれるのです。昼も夜も叫ばれるのです。自らを見捨てたかに見える神に向かって叫ばれるのです。遠く離れ、答えることのない神に向かって叫ばれるのです。

復活の主はこの絶望をくぐり抜けられたお方です。今生きて私たちとともにおられる神。私たちを日々導き支え励ましてくださる主は、この絶望をくぐり抜けてくださったまことの神です。

「罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです」(ローマ6・23)。

罪の報酬が死である、ということばは、死とは何かを語っています。罪を犯したら死ぬという因果応報を語っているのではありません。人間の死とは、罪によって神さまと断絶してしまったことによるものである、と語っているのです。人間以外の動植物も経験する生命の終わり、とは決定的に違うものである、と語るのです。

主が十字架上で背負ってくださったのは、この神さまとの断絶による絶望です。復活はその断絶の先に起こったことです。神さまによってなされたことです。ですから、主にあるものは、主とともに永遠のいのちに生きるものとされました。主の十字架上の絶望を水で薄めると、永遠のいのちが陰ります。私たちは永遠のいのちの輝きが、この主の絶望にかかっていることを信じています。絶望の暗闇が暗いほど、永遠のいのちの輝きは絶対的な輝きに満ちるのです。


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