イエスがベタニアで、ツァラアトに冒された人シモンの家におられると

静まりの時

  • テーマ:主の苦難
  • 聖書箇所:マタイ26・6~13
  • 日付:2026年04月01日(水)

6 さて、イエスがベタニアで、ツァラアトに冒された人シモンの家におられると、
7 ある女の人が、非常に高価な香油の入った小さな壺を持って、みもとにやって来た。そして、食卓に着いておられたイエスの頭に香油を注いだ。

主は十字架を前にした週の半ばにおいて、ツァラアトに冒された人シモン、の家におられました。ツァラアトとは、原文の発音をそのまま表記したものですが、以前の訳ではらい病、別訳では重い皮膚病と訳されていました。この単語は、神に打たれた、という意味なので、特定の病に訳してしまうと、その病が神に打たれたと理解される恐れがあるので、結局、このようにしたのだと思います。
主は、神に打たれた人の家におられます。

そこに、ある女の人、がやってきました。そして持参した非常に高価な香油を主の頭に注ぎました。
途端に食卓は、香油の香りに満たされました。広がる香りとともに驚きが広がります。

8 弟子たちはこれを見て、憤慨して言った。「何のために、こんな無駄なことをするのか。
9 この香油なら高く売れて、貧しい人たちに施しができたのに。」

驚いた人たちの中で弟子たちは一つの反応をしました。それは無駄なことである、もっと効率的な、あるいは賢い使い方があったのに、貧しい人たちに施しができたのに。

10 イエスはこれを知って彼らに言われた。「なぜこの人を困らせるのですか。わたしに良いことをしてくれました。

しかし主は言われました。この人はわたしに良いことをしてくれたのだ。主に良いことをする。それがこの人のしたことである、と言われます。さらに

11 貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいます。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではありません。

貧しい人たちへの施し。それは確かに意味のあることで、大切なことで、高価な香油の使い方として賢い使い方だと思います。しかし主は言われるのです。貧しい人たちはいつもあなたがたと一緒にいるのではないか。貧しい人たちへの施しならばいつでもできるではないか。にもかかわらず、このときになぜそのような理屈を持ち出してくるのだ。彼女のものは彼女のものであって、その使い方については他人がとやかく言うことではないのではないか。貧しい人たちはいつも一緒にいるのだから、あなたがたの手にあるものでいつも施しをすればいいのではないか。

たくさんの財を持った人たちを見て、あれだけの財があるならば、もっと世のため人のために使えばいいのに、と簡単に言います。しかしもしそのような財を自分自身が持っていたとすれば、果たして世のため人のために私は使うだろうか。同じ財産でも、人が持っているものの「良い使い道」を考えることは得意ですが、自分のものについては話しが違います。弟子たちだけではなくそれが私たちの姿なのではないだろうか。

12 この人はこの香油をわたしのからだに注いで、わたしを埋葬する備えをしてくれたのです。
13 まことに、あなたがたに言います。世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられるところでは、この人がしたことも、この人の記念として語られます。」

この女性は自分の香油をただ単純に注ぎたかったから注いだのだと思います。しかし主はそれを、わたしの埋葬の備えである、と言われました。このことばに誰よりも驚いたのはこの女性ではないかと思います。

さらに主は言われました。「世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられるところでは、この人がしたことも、この人の記念として語られます」。

この女性のことをマタイの福音書はただ「ある女の人」とだけ紹介しました。もっと詳しく紹介してもよかったのかもしれません。しかしおそらく、ある女の人にとっては、それで十分だったのだと思います。また教会もそれで十分だったのだと思います。なぜならキリスト教会は主だけを礼拝するところだからです。

しかし固有名詞が記されていないからこそ、この「ある女の人」のところに、私たち一人ひとりも重ねて読むことが可能となっているのではないか、とも思います。私たちがひたすら主への愛によって何かをなすならば、主はそれを私たちの想像を超える形で用いてくださるのです。


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