静まりの時
- テーマ:主の苦難
- 聖書箇所:マタイ21・18~22
- 日付:2026年03月30日(月)
18 さて、朝早く都に帰る途中、イエスは空腹を覚えられた。
19 道端に一本のいちじくの木が見えたので、そこに行って見ると、葉があるだけで、ほかには何もなかった。それでイエスはその木に「今後いつまでも、おまえの実はならないように」と言われた。すると、たちまちいちじくの木は枯れた。
主はエルサレムに入城され十字架に向かわれます。エルサレム入城を後に枝の主日と呼ばれることになる日曜日とすると、この出来事は翌月曜日の朝の出来事となります。
イエスさまが都エルサレムに向かわれることを、聖書は都に「行く」ではなく「帰る」と語ります。エルサレムはイエスさまが帰られるべき、イエスさまの家、神の家です。しかしその神の家であるはずのエルサレムでイエスさまは十字架につかれます。人間は神の家で神を殺すのです。
イエスさまはこのとき空腹を覚えられました。それでたまたま一本のいちじくの木が見えたので、何か食べるものはないだろうか、とそこに行って見られました。するとたくさんの葉の生い茂る、見るからに立派で木であったにも関わらず、実が一つもありませんでした。実がないことを、聖書は「ほかには何もなかった」と語ります。
難解な場所だと思います。難解にさせているのは、この聖句の言葉自体が難解であるというのではありません。書かれていること自体は簡単なことです。しかしイエスさまが自分勝手でわがままな方に感じられて、私たちが抱いているイメージと合わない、ということが、難解にさせていることだと思います。それでいろいろな説明がなされます。
色々な説明はいわゆる合理性を説明するために為されるのだと思います。しかし聖書を書いたマタイは、あるいはマタイの属していた教会は、合理性には興味はなかったと思います。
神さまの子であるイエスさまが空腹を覚えられたのだから、被造物としてはあらゆる合理性を乗り越えて、その空腹を満たそうとするのが、その被造物の在り方だと思います。そこで問いかけていることは、私たちは神の子の空腹を満たすための実を結んでいるだろうか。葉ばかりが生い茂っている人生となってはいないだろうか。この世的には見るからに立派な人生であったとしても、神さまの御子の御心を満たすような実を結んでいるだろうか。その問いが私たちに向けられているのだと思います。
「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものに反対する律法はありません。」(ガラテヤ5・22,23)
今週からNHK・古楽の楽しみの時間帯が変わり、1時間早くなりました。今週は受難週ということでエレミヤの哀歌が特集されます。