静まりの時
- テーマ:十字架をとって
- 聖書箇所:ヨハネ21・18~22
- 日付:2026年03月14日(土)
18 まことに、まことに、あなたに言います。あなたは若いときには、自分で帯をして、自分の望むところを歩きました。しかし年をとると、あなたは両手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をして、望まないところに連れて行きます。」
19 イエスは、ペテロがどのような死に方で神の栄光を現すかを示すために、こう言われたのである。こう話してから、ペテロに言われた。「わたしに従いなさい。」
20 ペテロは振り向いて、イエスが愛された弟子がついて来るのを見た。この弟子は、夕食の席でイエスの胸元に寄りかかり、「主よ、あなたを裏切るのはだれですか」と言った者である。
21 ペテロは彼を見て、「主よ、この人はどうなのですか」とイエスに言った。
22 イエスはペテロに言われた。「わたしが来るときまで彼が生きるように、わたしが望んだとしても、あなたに何の関わりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。」
「わたしに従いなさい」と主はペテロに言われました。この主とペテロとの対話において、主に従うということがどういうことであるのかが明らかにされています。
「どのような死に方で神の栄光を現すかを示す」とあります。生きることはもとより死においてさえも主の栄光を現すことができるということ。それが主に従う者の歩みであるということ。私たちは安心して死を迎えることができます。だからこそ安心して生きることができます。
「年をとると」。なんでも自律的に行動することが可能であった若い時ではなく、年をとると、自分で自律的にできることが少なくなり、まわりの人に助けていただくような生活となります。しかしそれさえも主の栄光を現すことになる、というのです。
「望まないところに連れて行きます」。自分が期待したところではないところ。そこでさえも主の栄光を現すことができる。そう主は言われます。だいたいが自分の望むところに行くということは、自分の栄光を現そうとしているだけのことであり、主の栄光を現すことにならないことも多いのです。
これが主に従う者の素晴らしい人生である、と主は言われました。
もう一つは、「主よ、この人はどうなのですか」という問いから自由にされる、ということです。私たちは常にだれかと比較する人生を歩むようにしつけられました。家庭でもそうだったかもしれません。公教育ではまさにそういうシステムでした。しかし主に従う人生とされて以来、そういう人と比較する生き方から自由にされたのです。自分らしく生きる者とされたのです。それが主に従うということです。