キリストの苦難にあずかればあずかるほど、いっそう喜びなさい

静まりの時

  • テーマ:試みに勝つ
  • 聖書箇所:第一ペテロ4・12~19
  • 日付:2026年03月05日(木)

12 愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間で燃えさかる試練を、何か思いがけないことが起こったかのように、不審に思ってはいけません。
13 むしろ、キリストの苦難にあずかればあずかるほど、いっそう喜びなさい。キリストの栄光が現れるときにも、歓喜にあふれて喜ぶためです。

19 ですから、神のみこころにより苦しみにあっている人たちは、善を行いつつ、真実な創造者に自分のたましいをゆだねなさい。

人生には様々な苦しみが起こってきます。もしそれらを「試練」「キリストの苦難」「神のみこころによる苦しみ」ととらえることができるならば幸いだと思います。つまり、苦しみがそれだけで存在しているのではなく、神さまとのかかわりの中にあるもの、として捉えるということです。イエスさまへの信仰に生きる者はそのような信仰に生きることができます。

苦しみによって私たちは、試みにあっている、と聖書は語ります。信仰の試みにあっている、信仰が試されているのです。その苦しみの中で喜ぶことができるか、喜びを選択することができるか、と試されている。その苦しみの中で善を行うことができるか、真実な創造者に自分のたましいをゆだねることができるか、と問われているのです。

苦しみを、何か思いがけないことが起こったかのように、不審がってしまう。「不審」は、他の訳では、驚き怪しむと訳されていました。原文ギリシャ語では「客として泊める」という言葉だそうです。普段ともに生きている人ではなく、イレギュラーな存在がやってくる、日常ではないことのように、特別なことのように、というような意味でしょうか。試練は、信仰生活においては「日常」なのです。信仰生活において、苦しみは、織り込み済み、なのです。

この苦しみを、キリストの苦難、神のみこころによる苦しみ、といいますが、ではキリストの苦難ではない苦難、神のみこころではない苦難、ということはどうなのだろうか。自分の足りなさでしでかした問題や苦しみは、それはキリストの苦難、神のみこころの苦難とは無縁のことであって、ここでは当てはまらないのか・・・。私はそうではないと思います。すべての苦難、自分の足りなさや過ちで被ることになって苦しみも、すべてもれなく、キリストの苦難、神のみこころによる苦しみ、といっていいのではないか、と思います。というのは、これはキリストの苦難、これはそうではない、などと私たちにははっきりと峻別することは不可能なのだと思うからです。

キリストは、明らかに善とは逆のことさえも、善に造り替え、それを善のために用いることの出来る全能なるお方なのです。

神の子とされた私たちは、あらゆる事態の中にあっても、喜びをもって善を行い、すべてのことを神さまにゆだねます。主が再臨されるときにも、喜びにあふれるためです。


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