降伏する者は生き、自分のいのちを戦勝品として得る

静まりの時

  • テーマ:目をさまして
  • 聖書箇所:エレミヤ21・8~22・5
  • 日付:2026年02月18日(水)

8 「あなたは、この民に言え。『主はこう言われる。見よ、わたしはあなたがたの前に、いのちの道と死の道を置く。
9 この都にとどまる者は、剣と飢饉と疫病によって死ぬ。出て行ってあなたがたを囲んでいるカルデア人に降伏する者は生き、自分のいのちを戦勝品として得る。
10 なぜなら、わたしがこの都に顔を向けるのは、幸いのためではなく、わざわいのためだからだ──主のことば──。この都は、バビロンの王の手に渡され、彼はこれを火で焼く。』」

「バビロン捕囚」。その国家の危機において、預言者エレミヤに語られた主のことばは驚くべきものでした。異教の国バビロンに捕囚されることを拒み、エルサレムの都に、イスラエル、カナンの地に固執しとどまる者は「剣と飢饉と疫病によって死ぬ」。逆に「出て行ってあなたがを囲んでいるカルデア人に降伏する者は生き、自分のいのちを戦勝品として得る」と。

神さまの約束の地、先祖から受け継いできた地、先祖がいのちをかけて守り通した地を捨てよ、といわれるのです。そうすれば、生きる、と。

ある人は、戦争が起こってしまった場合、その国の民衆にできる自分たちの身を守る方法は、負けること、である、と何かに書いておられました。国家のためにいのちを捨てる、ということが立派なことのように言われるかもしれませんが、死んでしまってはもともこもありません。どんな形であっても生きていく。そうであれば、神さまから与えられたいのちを全うすることができる。そういうのだと思います。自分のいのちを捨ててまで守らなければならないもの、あるいは誰かのいのちを奪ってまで守らなければならないものは、あるとは思いますが、それを、誰かに決めてもらう必要はありません。まして世間や国家に決めていただく必要はありません。

ほんとうの勝利とはいったい何をいうのか。十字架の主を信じている私たちは、その主の十字架こそ勝利である、と信じています。人間的に見れば、負け、としか見えない道に、しかしまことの勝利がある、と信じているのです。

そうであれば、自分にとってどのような道が十字架の道であるのかを、目をさまして見定めて行かなければなりません。


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