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めぐみのパンくず

こうしてあなたがたは、自分たちが受け継いだ言い伝えによって、神のことばを空文にしています。そして、これと同じようなことを、たくさんしているのです。”      マルコ7:13

◎イエスさまは、パリサイ人、律法学者に厳しいお方です。イエス様一行の行動に絶えず目を向け、隙あらば困らせようとするのです。今回は弟子たちが食事の時、手を洗わなかったことが発端となりました。

◎彼らは手洗いの儀式(彼らは几帳面に)に固執していました。人間が作った儀式で人を縛るのです。イエスさまはそれよりももっと大事なことがある、それは彼らが神の戒め、特に父母を敬え(十戒の第五戒)をないがしろにしていたことです。両親を養うものさえ、ささげ(コルバン)させていたのです。神さまのお心からは遠くへだたった教えに。

◎その後、イエスさまは群衆に、そして弟子たちに、外側の問題以上に内側の問題の重要性について話されます。外からのものは人の心を汚しはしないが、人の内側から出てくるものが汚すのだと。その内容は実に12のリストです(vs21,22)。一つ一つ、じっくりと見つめていくと「身体の内を衝撃が通り抜けるリスト」です。どの一つも、完全に解放されているものはないと思います。しかしです。

◎イエスさまの指摘に頭をたれる人は幸いです。この耐えられない重荷を背負って下さったのもイエスさまであれば、その汚れを赦し引き受けて下さったのも、その醜い心をきよめ住んで下さるのもイエスさまだからです。

めぐみのパンくず

イエスは、五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて祝福を求め、パンを裂き、人々に配るように弟子たちに与えられた。また二匹の魚もみなに分けられた。”  マルコ7:41

◎モーセが荒野で40年天からのマナでイスラエルの人々を養ったように、多くの群衆に食べ物を与えられたイエスさまの姿です。ヘブル人への手紙の主題は「優る」ですが、モーセにまさるお方としてのイエスさまを福音書の記者は表しています。

◎イエスさまのお話に耳を傾けた群衆にイエスさまは食事の心配もされました。弟子たちに「あなたがたの手で」与えよ。と言われます。五つのパンと二匹の魚しかありません。しかし弟子たちは命令に従いました。群衆を座らせてイエスさまはパンと魚を手に取り天を仰いで祝福されます。

◎配っても、配ってもなくならないパンと魚、五千人の男たち、女、子供を入れるとどれほどになったでしょう。その群衆の胃袋を満たしたのです。おまけに12かごにあまったのです。

◎残りのパンくず、魚はどうされたのでしょう。それは現在の私たち信仰者にも与えられ続けているのです。「わたしは命のパンです。」と言われたイエスさまの恵みが。このいのちのなるお方を食した者(信じて受け入れた者)は天からのマナである、イエスさまを永遠のいのちの食物としたのです。ですからある人々のようにこの奇跡を疑ったりすることは決してありません。

◎最後にこの場面とヘロデの宴会が対蹠的に書かれています。そのことも心したいと思います

めぐみのパンくず

まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません。」”

                マルコ10:15

◎ユダヤ人の母親たちは偉大で有名にラビに子供を祝福してもらいたいと願っていました。イエスさまは偉大なラビとして目に映っていたのでしょう。

◎しかし、弟子たちは止めました。この時期、イエスさまは十字架への道に邁進されていました。そのよう中、弟子たちにはそれどころではないと言う緊張感が漂っていたのかもしれません。

◎しかし「幼子を我に来ることを許せ」文。とイエスさまは言われました。宗教の開祖と言われる人で、他にイエスさまほど子供を愛されたお方がいたでしょうか。なぜイエスさまは愛されたのでしょう。

◎①幼子には謙遜があります。自己を誇示する子供がいるとすればそれは大人のせいでしょう。②幼子は従順です。従うことを教えられやすいのです。③信頼がある。権威を受容し、」また誰をも悪人と考えないで誰とでも仲良くすることができる。④幼子は長く覚えていない。悪意をいだき、恨みを持ち続けることを習っていない。不当に取り扱われた時ですら、彼はそれを忘れしかも全く忘れてしまうのです。

◎幼子の性質に倣いつつ、キリスト者は神さまに対して謙遜に、従順に、信頼しつつ、人の悪を思わず。ロマ12:17イエスさまのふところにいだかれる存在でありたいと願います。