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めぐみのパンくず

父は彼に言った。『おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ。

だが弟は、死んでいたのに生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。』”

ルカの福音書15:31,32

◎キリスト者が信じる神さまは父なる神さまです。罪びとなる放蕩息子が、父のもとに帰ってくるのを一日千秋の思いで待っておられるのです。

◎生前贈与を受けた弟息子が放蕩三昧の結果、我に返り、父の家で奴隷にされても良い覚悟で帰って来ます。「わたしは天に対しても罪を犯し、あなた(父)に対しても罪を犯しました。と激しい悔い改めの結果の告白でした。

◎「もうわたしは、あなたの息子と呼ばれる資格はありません、雇人の一人」になろうと帰ってきた息子を父は遠くから見つけ、走り寄り、抱き、口づけをします。「親」という字は木の上に立って見ると書きますが、首を伸ばして息子の帰りを待っていた父親でした。

◎雇人になる覚悟で帰ってきた弟息子に、最良の着物を着せ、指輪をはめ、靴を履かせます。罪人が神の子どもとされる姿の象徴です。義の衣、契約の指輪、罪の奴隷からの解放の徴です。そして祝いの宴が始まりました。

◎ところが「兄はおこって」とありますが、畑から帰って来て、父の喜びを理解できないのです。しばしば、いつも父なる神と一緒にいるはずの信仰者が、喜びの健忘症になり、救霊を忘れてしまっている姿と重なります。罪びとの悔い改めを心から喜ぶ者とされたいと思います。

めぐみのパンくず

見よ。わたしは新しいことをする。今、それが起ころうとしている。あなたがたはそれを知らないのか。”    イザヤ書 44:19

◎イエスさまを信じて、神の子どもとされたものは、すべて新しくされた者です。しかし、新しくされた世界に入ったはずなのに、その感動が失われていきます。イスラエルの民たちが出エジプトの経験を保持できなかったように、時には危うさを感じます。

◎そこで、聖書は信仰の民のリニュウアルを示されます。イスラエル人には出エジプトの経験に次いでバビロン捕囚という、厳しい体験を通してでした。その後、民たちが二度と偶像礼拝をしなくなったというのは、実に大きな驚きです。

◎神の子とされたキリスト者が、新しくされるということは、第一に「新しい契約・文字に仕える者でなく、御霊に仕えるようなる」Ⅱコリント3:6ことです。み言葉を何とか自分の本来の性質で「守って行こう、ああしよう~こうなりたい」。ユダヤ人は律法を守ることに懸命でした。その結果を聖書は徒労にすぎなかったことを教えています。信仰によって御霊が共にいて下さり、このお方がみ言葉を通して語って下さること信じて読み、与えられたみ言葉にゆだねることです。

◎第二にイエスさまと共に歩んでいることがよろこびとなって行くのです。過去の経験ではありません。現在がそうなのです。「心の霊において新しくされ」エペソ4:23とありますが、信仰のない人たちが、虚しさの中で歩むようなことがないようにとパウロは勧めるのです。

◎やがて新天新地で完全に新しくなることを、常に喜びとしたいものです。

めぐみのパンくず

わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。”

        イザヤ書43章4節

◎イザヤ書の慰めに満ちたみ言葉の一つです。神さまのまなざしが、神を愛する者に注がれているだけでなく。全世界に一人しか存在しない者のごとく、高価で尊いと言ってくださるのです。幾つかの背景を見たいと思います。

◎このみ言葉が書かれている前後には、エジプトの苦難と、バビロン捕囚にされるであろうということが預言されています。神の民イスラエルの国家的苦難でした。その苦難の中でも、神さまに信頼する民への神のまなざしです。

◎2節を見ますと「水の中、川の中、火の中」と苦難の連続が記されていますが、愛のまなざしはその現状を把握し見つめているがごとく、神さまは「恐れるな、わたしが造った者、贖った者よ」と励まされるのです。イスラエルの苦難の道のりは、紅海を渡り、ヨルダン川を渡らなければなりませんでしたし。またバビロンに捕囚にされるときには、シャデラク、メシャク、アベデネゴのように、信仰を守ることのゆえに火の中に落とされるようあこともあるのです。

◎贖いの民VS1(十字架による)にはどんな時にも、神さまの御顔が向けられており、価値ある存在として見つめられ、愛されているのですから、一つ一つの苦難と闘いに勝利することができるのです。イエスさまのまなざしがいつも信仰者に向けられていることを心の底から感謝したいと思います。