月別アーカイブ: 2015年12月

めぐみのパンくず

しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。”イザヤ書 40:31

◎2016年のみ言葉です。待ち望む信仰者に与えられる神様の約束です。ますます忍耐がなくなる世界で、キリスト者は神さまを待ち望むことを決して忘れてはなりません。

◎待ち望む者に神様の三つの約束があります。三つを見る前に奇妙なことに気が付きます。上る、走る、歩く、の順序です。飛行機にたとえてみますと、機体はゆっくりと歩くように動き出し、そして走り出してそれから飛び立つのです。その順序が逆なのです。なぜそのような書き方なのでしょう。見てみましょう。

◎「翼をかって上る」キリスト者は第一にみ言葉を聞くことによって引き上げられねばならないと言うことです。礼拝で、聖会で、み言葉を聞くことによって信仰がこの世から引き上げられなければなりません。み言葉に聞き入ることは天上の生活の体験なのです。

◎二番目の「走ってもたゆまず」とは、奉仕の世界を表します。使徒の働きの中でピリポがエチオオピアの宦官を導くとき「走っていくと」8:30と書かれています。

◎最後の「歩いても」とは何でしょう。信仰者の毎日の歩みです。信仰生活は決して派手なものではありません。しかし、単調な中でも不断に主と歩いているという信仰です。エノクは「三百年間、神と共に歩んだ」とあります。キリスト者の歩みはイエス様と共なる行歩なのです。

めぐみのパンくず

イスラエルの光は火となり、その聖なる方は炎となる。”       イザヤ書10:17

◎聖書の神はイスラエルの人々をエジプトから光となって導き出されたお方。「昼は雲の柱、夜は火の柱」。ここでは焼き尽くす火のような勢いの光となっておられる。

◎人間は限られた世界でしか存在できないものですが、光についてもそうです。太陽の光はありがたいですが、直視はできません。明るすぎることに耐えられないのです。

◎また、目に見える光だけではなく、霊的な目を持ってしか見ることができない世界をキリスト者はもっています。神さまの光はそこに光を与えてくださるのです。いくつか見てみましょう。

◎「滅亡と残りの者の存在」10:20~21イザヤ書における大切な思想、「残りの者」「レッムナント」については以前学びましたが、イスラエル人の中に神に守られ神に従った残りの者がされ、キリスト者はイエス様によって終わりに日に残りのものとされる存在であることを知って歩むのです。

◎第二にイエス様の生涯です。人の子となって地に来られたイエス様の生涯は御霊が共におられ、きよい歩みの生涯であり、「主(父なる神を恐れる)生涯」を見せて下さったのです。11:1-5

◎第三に真の平和を見させていただく光に目を留めます。11:6-9。興味深いことは草食生活が記されています。堕落以前の世界を覚えながら、イザヤは真の回復の時を預言したのでしょう。一切の争いが絶える世界です。

◎最後にこれらのことは「主を知る」11:9ことにすべてがかかっていることを忘れずに。

めぐみのパンくず

ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。

              イザヤ書9:6

◎テトス2章11節に「すべての人を救う神の恵みが現れた。」とありますが、救い主は誰もが近づける存在として、みどりごの姿をとってこの地上に生まれてくださいました。イザヤはこのところで救い主がどういうお方であるかを4つの表現で教えてくれています。

◎「不思議な助言者」ワンダフル・カウウセラです。イエス様はワンダーなお方。幼子が目に見えるもの、手で触れるもの、それは成人したものとは感覚が違います。幼子にとっては何もかもが不思議に見えます。イエス様はどこから見ても実に不思議なお方です。この不思議を実感したキリスト者は幸いです。

◎「力る神」マイティ・ゴッド。どんな罪も、どんな悲しみも木っ端みじんに吹き飛ばすことのできるお方です。

◎「永遠の父」力強い父の存在は子にとって大きな支えであり手本ですが、人間の父は大体が子供よりも先に死んでいきます。とこしえの父として神の子供たちの家族の長として永遠に存在してくださるお方です。

◎「平和の君」イエスさまは「わたしは平安をあなたがに残します。平安を与えます。」と言われ「世が与える平安とは違う」ヨハネ14:27と約束してくださいました。それだけでなく世界をやがて一切の闘いから解放されるお方です。

めぐみのパンくず

しかし、イスラエルの二つの家には 妨げの石とつまずきの岩、エルサレムの住民にはわなとなり、落とし穴となる。”  イザヤ書8章8節

◎不信のイスラエルについての神様のメッセージです。「わたしは、妨げの石、つまずきの岩」と。

面白い表現だと思いました。「妨げの岩、つまずきの石」ならすんなり聞きもしますが、石などは踏み越えられますし、岩につまずくなどと言うことがあろうかと思います。教えられたことは、神さに対して、真の信仰者にとってイエス様はつまずかないでもよいお方。妨げとは決してなられないお方です。

◎このイザヤ書のみ言葉は三か所引用されています。第一はイザヤ書28章16節「信じる者はあわてることがない。」とあります。ドイツの牧師デイトリッヒボーンへツパーはナチスに反対し、ドイツ降伏3週間前に処刑された人ですが、彼は「信じる者は慌てることがない」を「逃れることはない」と訳しました。使命から、そこに起こる困難から」逃れる必要のない彼の信仰を表しているように思います。

◎第二はロマ書9章31節。使徒パウロはユダヤ人は行いによる義を求め、信仰による義を求めなかったゆえに「信じる者は失望させられることがない」ことに至らなかったというのです。

◎第三はⅠペテロ2章6節。ペテロは「決して」という言葉を加えて「失望させられない」と言いました。イエス様を3度まで否んだ経験からの言葉でしょうか。しくじっても、時には不信仰に落ちいっても「決して」なのです。イエス様はどんなことにも岩のように不動のお方です。

めぐみのパンくず

インマヌエル。その広げた翼はあなたの国いっぱに広がる”      イザヤ書8:8

◎クリスマスの祝福は何といってもイエス様のご降誕ですが、ただ単にお生まれになったというのではなく「インマヌエル」「神、われらとともにいます。」というお約束の成就です。マリヤの胎の中に宿られた主が、信仰者の心に宿ってくださるのです。

◎イザヤは、ここでその領域「翼」と言う表現をもって予言しています。神の国いっぱいに広げられた翼は「贖い」を、もっと言いますと「十字架」を表しています。マタイの福音書23:37「めんどりがひなを翼に集めるように、あなたの子を幾たび集めようとしたことか」と嘆かれました。が、ユダヤ人たちはこのお方のもとに来ようとしなかったのです。

◎翼のもう一つの意味を見てみましょう。それは「庇護」を表します。ルツ記を見てみましょう。モアブの女ルツがイスラエルに嫁いで来て、貧しい中、ボアズの畑で落穂ひろいに専念します。その働く姿の美しさに持ち主ボアズは「あなたがその翼の下に避けどころを求めてきたイスラエルの神」が祝福されるようにと言葉をかけます。

◎イザヤの時代、ユダの人々は神さまの守りをないがしろにしました。それゆえ、大きな濁流が流れ込んで来ると警告されます。それはアッシリヤという強大な国のこうげきでした。その警告と共に語られた、「インマヌエルの翼」は信仰者に対してこの世の災い、敵から覆い守ってくださると言う約束です。インマヌエルは主が共なるのですから。