月別アーカイブ: 2014年11月

めぐみのパンくず

すると彼らはみな、また大声をあげて、「この人ではない。バラバだ」と言った。このバラバは強盗であった。”      ヨハネ19:40

◎ローマの総督ポンテオ・ピラトはイエスさまの人格に触れる程、十字架にかける罪がないことを思います。そこで、過ぎ越し祭に慣例となっている恩赦の話が群衆から出た時「このユダヤ人の王を釈放してくれというのか」マルコ15:9問います。しかし、祭司長たちに先導された群衆は「バラバを釈放してもらいたい」と叫ぶのでした。バラバは暴動の時、人殺しをした暴徒たち一緒に牢に入っていた男ありマルコ15;7、名の知れた囚人マタイ27:16でした。「この人ではないバラバだ」と、どうして言うことが出来たのでしょう。それは「ねたみから」であったとマルコ15:10言うのです。宗教家たちは火のようにねたみを燃え上がらせていたのです。

◎イエスさまはバラバに代わって十字架にかけられることになります。バラバは釈放されるのです。キリスト者は十字架に架けられるのはイエスさまではなくバラバであることを知っています。しかし、それ以上にバラバは私たちということを知っています。

◎ひとりの青年が、上司に代わって(頼まれて)礼拝出席することになりました。初めて入る教会、初めて聞く説教、彼は礼拝が終わったら即座に教会を出ようと決めていました。その日の説教が「バラバ」でした。外国人の説教者が話しの最後に「バラバはあなたです。イエスさまが身代わりになられたのです。」と語った時、青年はその場を立てなくなったのでした。

めぐみのパンくず

わたしの国はこの世のものではありません。もしこの世のものであったなら、わたしのしもべたちが、わたしをユダヤ人に渡さないように戦ったでしょう。しかし、事実、わたしの国はこの世のものではありません。”      ヨハネ18:36

◎イエスさまの裁判です。実に無軌道な裁判です。木曜日の夜を徹しての裁判となりました。イエスさまはまず大祭司の姑のアンナスの前に、それからカヤパの前に、そしてロ-マの総督ポンテオピラトの前に、そのピラトも一時、ヘロデのの所にイエスさまを連れて行きます。(ルカ23:7)そしてもう一度ピラトのもとに。

◎ユダヤ人たちはイエスさまが民衆を扇動してローマに謀反を起こす人物と考えていたようです。アンナスはローマの軍隊が強力であることを知っていましたから負けるのは必定、そこで「ひとりの人が民に代わって死ぬことが得策である」18:14と考えました。裁判は裁判によって罪に処するか、無罪とするかのものであるはずなのですが、初めからイエスさまを殺そうとの考えです。

◎しかし、ピラトはそうではなかったように思います。イエス様に個人的に取り調べをするように質問します。「ユダヤ人の王であるか」33「いったい何をしたか」35その後「それではあなたは王なのですか」と詰め寄りますが、イエスさまは「わたしが王であることは、あなたが言うとおりです」37と答えられます。真理の証しのための王だと。

◎イエスさまの裁判を思うたび、真理を知ろうとしない世界、真理を抹殺したい世界。正しい弁明に耳をかさない世界を悲しく思います

めぐみのパンくず

それでペテロはもう一度否定した。するとすぐ鶏が鳴いた。”   ヨハネ18:27

◎神さまは私たちが自分を知る以上に知っておられるお方です。しかし残念なことに自分では心の奥深い所はわからないのです。

◎イエスさまが十字架の道に進んで行かれる姿を見たペテロは「牢であろうと、死であろうと覚悟はできています。」と威勢の良いことを語っていました。しかしイエスさまは「サタンがあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き入れられたので」「鶏が鳴く前に3度わたしを否む」と言われたのです。ルカ22:31~34。

◎。ペテロは漁師から弟子とされる時、海の底をも見通される主は、自分の醜い心をも見ておられることを体験し、「私のような者から、離れて下さい。私は罪深い人間ですから」と認罪の経験をしました。しかし、福音を宣べ伝えるものとされるためにはもっと奥深い所を取りあつかわれなければならなかったのです。

◎それは、死の恐怖からのお取扱いであったと思います。イエスさまの逮捕の現実、それを垣間見たペテロはイエスさまの後についていこうとしながら門の中に入れてもらいますが「あなたはあの人の弟子ではないか」と糾弾されると怖れてしまったのです。そうして三度も。

◎火で身体は暖まっても、決して暖まれない自分の心をまざまざと見せつけられた事でしょう。そのペテロにイエスさまは「鶏が鳴く前に」というお言葉を残しておいて下さいました。

◎鶏の鳴き声を聞いた時、自分の弱さ、失敗を超えてイエスさまの愛の守りに涙したのです。

めぐみのパンくず

そこで、イエスはペテロに言われた。「剣をさやに収めなさい。父がわたしに下さった杯を、どうして飲まずにいられよう。」”   ヨハネ18:11

◎ヨハネの福音書におけるゲッセマネの園の出来事です。イエスさまは大祭司の祈りを父なる神さまにささげた後、いよいよ捕縛されるために園から出ていかれました。逮捕しに来たユダと兵士たち、役人たちのまえに「それはわたしです。」と二度ご自身から名乗られます。ただ同行の弟子たちのためには「この人たちは去らせなさい」と弟子たちを捕縛から守られました。

◎短気なペテロは大祭司の僕の耳を剣で切り落としますが、イエスさまは「剣を鞘に収めよ。父の我に賜いたる酒杯は、われ飲まざらんや。」(文語訳)と逮捕されなさったのです。

◎「父が下さった杯」。杯と言えば夫婦や親分子分の約束を固めるために使われるものですが、深く硬い結びつけを現します。聖書には杯のことがしばしば出て来ますが、神さまが与えられるものとして二通りのものが記されます。

◎一つは祝福の杯です。有名な詩篇の23篇に「わたしの杯はあふれます。」vs5。とありますが、イエスさまは祝福に満たして下さるお方です。キリスト者は聖餐式を毎月持ちますが、それは祝福の杯であり、イエスさまの十字架の恵み、すなわち罪の赦しの深さを心から感謝して味わう時なのです。この杯に与れる感謝を忘れてはいけません。

◎もう一つの杯は神の怒りの杯です。イザヤもエレミヤのエゼキエルも警告として記しています。神さまを拒む者へのしるしとして。信仰者は苦き杯から解放されているものです。