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めぐみパンくず

わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。”          ヨハネ14:9

◎私たち(弟子たちの)心が騒がないように、イエスさまは天の家の約束を語って下さいました。「父の家には住まいがたくさんあります」と。英語の聖書を見ますと「many mansion」と書かれています。イエスさまは信仰者のためにマンション(広大な屋敷)を用意していて下さるのです。

◎疑い深いトマスは「where何処へ、how どうして」とたずねました。具体的にイエスさまは三つの事を語って下さっています。①道~天国への道はイエスさまです。他にありません。狭い門と覆って、狭い道を歩むのです。「この道より、ほかの道なし、この道を歩む」武者小路実篤の言葉を思いますが、イエスさまと一緒に歩く道です。②真理~これは天国へ行くためのルールといったら良いでしょうか。ポンテヲ・ピラトは後に「真理とは何か」とイエスさまに問いますが、真理はイエスさまのうちにあり、キリスト者はこのお方の語られる、み言葉の導きによって歩んで行くのです。③いのち~イエスさまを信じて罪赦され、義とされて神の子として新しく生まれたいのち~もっと言いますと永遠のいのちです。いのちは死んだ者にはありません。神の子としての生きる動力、エネルギーです。

◎使徒パウロはピリピ人への手紙の中で、「私たちの国籍は天にあります」3:20と言いました。天国人としての市民権を与えられているのです。このことば聖書の時代はエリートの持つものでした。

◎弟子たちをはじめ、聖徒たちの信仰は御国への強い思いの信仰でした。アンドリュ・ボナーと言うフィンランドの牧師は毎朝部屋の窓を開き「イエスさま、今日かも知れませんね」と言ったそうです。

めぐみのパンくず

“あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのようにあなたがたも愛し合いなさい。”     ヨハネ13:34

◎イエスさまに愛されたように愛する。これが新しい戒めです。このみことばを語られたのは二つの理由がありました。①いなくなるvs33から。②ユダが出て行った時VS31それは裏切りという悲しい事実です。ユダはイエスさまが足を洗って下さるほどに愛してくださった意味がわからずにいたからです。

まず、二つの裏切りに目を留めてみましょう。

◎ユダの裏切りvs21 A聖書の中の最も不可思議な人物、OTでは預言者バラム、NTではユダです。二人とも何度も主のお声を聞いていたのにです。二人とも金銭欲から離れることが出来なかった。(聖書は富の問題を教えます。)vs29金入れを持っていた会計係でしたが。12:6では「いつも盗んでいた」のです。

B、ユダだけがユダヤの出身で他の弟子はガリラヤ主審~都会という間違ったプライドが他の弟子たちとの交わりを持てなかったかもしれません。

C、イエスさまへの期待観の間違い。イエス・キリストがローマの圧政から解放してくださる主と思っていたがそうでないといち早く知った男。「この男はもうすぐ死ぬ(十字架で)」と考え、その死の意味が理解できなかったのでしょう。イエスさまからパンきれを受け取った時、サタンが入り、彼はイエスさまを売るために出て行ったのです。

◎ペテロのイエスさま否定の預言。「いのちをも捨てます」と告白したペテロですが。「三度知らない」と後に言ったペテロです。人間の心の奥底はイエスさまだけがご存知です。

◎その結果、ユダとペテロの違いはイエスさまが語り見せられた愛が、残ったかどうかと言うことです!

めぐみのパンくず

イエスは、~夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手拭いをとって腰にまとわれた。それからたらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいでふき始められた。“                    ヨハネ13:4,5

◎イエスさまが僕たちの足を洗いなさった大切なヨハネの記録です。過ぎ越しの祭りが近づいてきました。主が十字架に架かられる日が近づいたのです。しかしヨハネは「この世をさって父のみもとに行くべき時」「父が万物を自分の手に渡されたこと」と十字架を超えて復活されるイエスさまの姿を記します。万物の支配者なるイエスさまが弟子たちの足を洗われたのです。

◎上のみことばは七段のへりくだりと言われます。(ピリピ2:6~8)このイエスさまの姿に弟子のペテロは驚きを通り越して戸惑いを覚えました。イエスさまのお言葉は「、後でわかるようになります」でした。イエスさまは愛を余すことなく弟子たちに示すためにこのことをなさったのですが、それは十字架の愛を示すためでした。愛の極みとして洗足された主は、十字架に架かられたのです。ペテロはどんなに深く愛して下さったかを後に知ることとなります。私たちキリスト者は十字架の愛を知る者ですが、今より後に、もっと深い十字架の愛を知る時が来るに違いありません。

◎さて「洗足」ですが、イエスさまに足を洗ってもらわなければ、イエスさまと何の関係もないことと同時に「全身きよくなれない」ことをも覚えておかなければなりません。イエス・キリストを救い主として信じた者は「私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから~」ヘブル10:22きよい存在なのです。でも、足は汚れるのです。キリスト者の歩みは現在地上の歩みです。ですから日々の歩みの中で汚れるのです。ほんの少しでも汚れに気づく人は幸いです。 

◎またみ言葉によって汚れを点検できる人は幸いです。

たとえば、エペソ人への手紙4章26節には怒りについての警告、「怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません」とありますが、み言葉に素直にしたがい怒りの中を歩みかけていた心を洗っていただける人は本当に幸いな人です。

◎キリスト者は光の中を歩みます。闇の中を歩いているのではありません。

 罪を犯したらそれが罪だとわかる存在、失敗は失敗と認めることが出来る存在。イエスさまは日々私たちの心を洗いきよめ続けて下さるお方です。